御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

第五 比丘比丘尼 有懐増上慢 優婆塞我慢 優婆夷不信の事 新1000頁

第五 「比丘比丘尼 有懐増上慢 優婆塞我慢 優婆夷不信(比丘・比丘尼の、増上慢を懐くこと有るもの、優婆塞の我慢なるもの、優婆夷の不信なるもの)」の事


  文句の四に云わく「『上慢』と『我慢』と『不信』とは、四衆通じて有り。ただし、出家の二衆は、多く道を修し禅を得て、謬って聖果と謂(おも)い、ひとえに上慢を起こす。在俗は矜高(こうこう)にして、多く我慢を起こす。女人は智浅くして、多く邪僻(じゃへき)を生ず。『不自見其過(自らその過を見ず)』とは、三失、心を覆う。疵(きず)を蔵(かく)し徳を揚げて、自ら省みること能わざれば、これ無慙(むざん)の人なり。もし自ら過を見ば、これ有羞の僧なり」。
  記の四に云わく「『疵を蔵す』等とは、『三失』を釈するなり。『疵を蔵し徳を揚ぐ』は、『上慢』を釈す。『自ら省みること能わず』は、『我慢』を釈す。『無慙の人』とは、『不信』を釈す。もし自ら過を見ば、この三失無し。いまだ果を証せずといえども、しばらく『有羞』と名づく」。

 御義口伝に云わく、この本末の釈の意は、五千の上慢を釈するなり。委しくは本末を見るべきなり。「比丘・比丘尼」の二人は、出家なり。共に「増上慢」と名づく。「疵を蔵し徳を揚ぐ」をもって本とせり。「優婆塞」は男なり、「我慢」をもって本とせり。「優婆夷」は女人なり、「無慙」をもって本とせり。この四衆は、今、日本国に盛んなり。経には「其数有五千(その数五千有り)」とあれども、日本国に四十九億九万四千八百二十八人と見えたり。在世には、五千人、仏の座を立てり。今、末法にては、日本国の一切衆生、ことごとく日蓮が所座を立てり。「比丘・比丘尼増上慢」とは、道隆・良観等にあらずや、また鎌倉中の比丘尼等にあらずや。「優婆塞」とは最明寺、「優婆夷」とは上下の女人にあらずや。あえて我が過を知るべからざるなり。今、日蓮等の類いを誹謗して悪名を立つ。あに「不自見其過」の者にあらずや。大謗法の罪人なり。法華の御座を立つこと疑いなきものなり。しかりといえども、日蓮に値うこと、これしかしながら「礼仏而退(仏を礼して退きぬ)」の義なり。この「礼仏而退」は軽賤の義なり。全く信解の礼退にあらざるなり。これらの衆は「於戒有欠漏(戒において欠漏有り)」の者なり。文句の四に云わく「『於戒有欠漏』とは、律儀に失有るをば『欠』と名づけ、定共・道共に失有るをば『漏』と名づく」。
  この五千の上慢とは、我らの具うるところの五住の煩悩なり。今、法華経に値い奉る時、慢即法界と開いて「礼仏而退」するを、「仏威徳故去(仏の威徳の故に去りぬ)」と云うなり。「仏」とは、我らの具うるところの仏界なり。「威徳」とは、南無妙法蓮華経なり。「故去」とは、「而去不去(しかして去って去らず)」の意なり。普賢品の「作礼而去(礼を作して去りにき)」、これを思うべきなり。

また云わく、五千の退座ということ、法華の意は不退座なり。その故は、諸法実相・略開三顕一の開悟なり。さてその時は、「我慢」「増上慢」とは、慢即法界と開いて本有の慢機なり。「其数有五千」とは、我らが五住の煩悩なり。もしまた五住の煩悩無しと云わば、法華の意を失いたり。五住の煩悩有りながら本有常住ぞと云う時、「其数有五千」と説くなり。断惑に取り合わず、そのまま本有の妙法の五住と見れば、「不自見其過」と云うなり。
  さて、「於戒有欠漏」とは、小乗・権教の対治衆病の戒法にてはなきなり。「是名持戒(これを戒を持つと名づく)」の妙法なり。故に欠漏の当体そのまま「是名持戒」の体なり。しかるに、欠漏をそのまま本有と談ずる故に、「護惜其瑕疵(その瑕疵を護り惜しむ)」とは説くなり。元より一乗の妙戒なれば、「一塵含法界、一念遍十方(一塵に法界を含み、一念は十方に遍し)」の故に、「是小智已出(この小智はすでに出でぬ)」と云うなり。「糟糠」とは、塵々法々、本覚の三身なり。故にすくなき福徳の当体も本覚無作の覚体なり。
  「不堪受是法(この法を受くるに堪えず)」とは、略開の諸法実相の法体を聞いて、そのまま開悟するなり。さて、身子尊者、鈍根のために分別して解説したまえと請う広開三の法門をば、「不堪受是法」と説く。
  さて、法華の実義に帰って見れば、妙法の法体はさらに能受・所受を忘るるなり。不思議の妙法なり。本法の重を悟って見るが故に、「此衆無枝葉(この衆に枝葉無し)」と云うなり。かかる内証は「純一実相、実相外更無別法(純一の実相にして、実相の外にさらに別の法無し)」なれば、「唯有諸貞実(ただ諸の貞実のみ有り)」なり。詮ずるところ、「貞実」とは、色心を妙法と開くことなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、「唯有諸貞実」と説くなり。「諸」とは、諸法実相の仏なり。「諸」は、十界なり。「貞実」は、十界の色心を妙法と云うなり。今経に限る故に、「唯」と云うなり。
  五千の上慢の外、全く法華経これ無し。五千の慢人とは、我らが五大なり。五大は即ち妙法蓮華経なり。五千の上慢は、元品の無明なり。故に「礼仏而退」なり。これは九識・八識・六識と下る分なり。流転門の談道なり。「仏威徳故去」とは、還滅門なり。しかれば、「威徳」とは、南無妙法蓮華経なり。本迷本悟の全体なり。能く能くこれを案ずべし云々。

 

<感想>

ここのところは言葉が難しくて語句の意味を読み、また通解を読み、そして講義を読んでもなかなか理解できないところがありました。

昔の御義口伝講義の本は新版御書の御義口伝と本文が少し違うので上に載せた新版御書を見ながら通解を読むと微妙に違って理解が遅れます。新版御書の御義口伝に対応する通解や講義の本が出るといいと思います。

私なんかが変に解釈できない大事な法門なので、御義口伝はもうブログに書きたくないと思ってしまいます。

 

今回は五千の上慢はもともと私たちの生命にある慢心のことであり、元品の無明のことだと書かれてありました。

慢心にも七慢、八慢、九慢とあるそうですが、七慢について語訳にありましたが、よく言われる増上慢とは、いまだ得ざるを得ていると思うことです。

慢とはほかに劣っているのに自分が勝れていると思うことだったり、過慢とは、ほかと等しいのに自分が勝れていると思うことだったり、慢過慢とは、ほかが勝れているのに自分がさらに勝れていると思うこと。我慢とは、自分をたのみ、自分に執すること。卑慢とは、ほかが多分に勝れているのに、自分は少しだけ劣っていると思うこと。邪慢とは、自分に徳がないのに徳があると思うこと。などです。

慢心に陥らず、謙虚に求道心を燃やして学んでいきたいと思います。