御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 陀羅尼品 第二 全777頁 新1081頁

第二 「安爾(あに)、曼爾(まに)」の事


  御義口伝に云わく、「安爾」とは止であり(邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義である)、「曼爾」とは観であり(正見・正智をもって、諸法を観照することである)。この「安爾」「曼爾」より天台大師は止観の二法を釈し出したのである。よって、この呪は薬王菩薩の呪であり、薬王菩薩は天台の本地という関係になっているのである。

これを観心の立場からいえば、「安爾」とは、我らが生命の心法をいい、妙法の妙にあたる。「曼爾」は、我らが生命の色法であり、妙法の法にあたる。

われわれの色心の生命が妙法の当体なりと信じて、題目を唱えていくときは、それが即身成仏ということなのである。

 

<講義より>

 薬王菩薩の安爾・曼爾の「呪」は止観と同じ意味であり、それはさらに色心の二法であり、妙法になるとの仰せである。結局、南無妙法蓮華経の題目を唱えることが、安爾・曼爾の陀羅尼神呪の実体である。

 題目を唱えるということがどうして大事なのか、なぜ功徳があるのか、これは凡夫の理解力をもってしては、解しがたい問題である。

 例えばある一つの哲理を理解し、それを生活に応用する。そこに効果が現れることは、当然の道理として理解できる。

 だが、文章としてではなく、一つの言葉を口に唱えるだけで、現実の生活に効果が出てくるというのは、容易に理解できることではない。

  外道において聖書の一文や祈祷文を暗誦するが、それは意味の通った文章からなっている。 仏法でも、釈迦仏法は受持・読・誦・解説・書写というように、経文を読誦するが、これも文章である。

 いわゆる呪文のように、通常の文章でない言葉を唱えるという修行は、末法において初めて現れてきたと言ってよい。元より原始の昔から呪術はあった。だがそれは元々教義や哲学のない原始宗教であって、一つの教義体系を持った宗教のエッセンスという形で、呪を唱える修行が現れたのは、末法の特色と言える。即ち、真実の呪とは、その法の真髄であるとともに、生命のリズムであり、宇宙のリズムとなっている。

 これこそいかなるところにあっても、誰でもが実践できる、最も単純化された修行の方法であり、方法の簡明化は、時代を超え、国境を越えて流布すべき、絶対不可欠の条件とも言えるのである。

 南無妙法蓮華経の題目を唱えるということは、すなわちこの呪の究極であり、法華経の哲学のエッセンスでもある。法華経のエッセンスとは、とりもなおさず、八万法蔵といわれる仏法哲学全体のエッセンスにほかならない。

この南無妙法蓮華経は、即、八万法蔵であり、宇宙の万法であり、大宇宙のリズムである。われわれが御本尊を信じて南無妙法蓮華経を唱え、実践していくとき、わが生命のリズムもまた、南無妙法蓮華経のリズムとなって、無上の功力が顕現し、即身成仏するのである。