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御義口伝 神力品八箇の大事 第一 全770頁 新1072頁

 神力品八箇の大事
第一 「妙法蓮華経如来神力」の事


  【天台は】文句の十に云わく「『神』は不測(ふしき=不可思議)に名づけ、『力』は幹用(かんゆう=木の幹のような力強い働き)に名づく。不測(ふしき)は則(すなわ)ち天然の体(=無作の三身)深く(深遠である)、幹用は則ち転変の力(万物を生滅、変化する根源の力)が広大であることをあらわす。この中で、(妙法蓮華経の)甚深の法を付属するために、十種の大力を現じたので、『神力品』と名づけられたのである」と釈している。


  御義口伝に云わく、この「妙法蓮華経」は釈尊の妙法ではない。既にこの品(神力品)の時、上行菩薩に付嘱されていたからである。
  総じて、妙法蓮華経上行菩薩に付嘱されることは、宝塔品の時、事起こり、寿量品の時、事顕れ(法体が顕れた)、神力・嘱累の時、事(付属の儀式はすべて)おわるのである。

如来」とは、上の寿量品の(南無妙法蓮華経如来のことである。「神力」とは、(付属の際に現じた)十種の神力である。所詮、妙法蓮華経の五字は神と力となり。(神即不測の体であり、力即転変の力である。)

 

「神力」とは、上の寿量品の時の「如来秘密・神通之力」の文と同じである。今、日蓮等の類い(日蓮とその門下)が、南無妙法蓮華経と唱えている題目のことである。

この十種の神力は、一往は在世・滅後にわたるが、再往は、十種共に滅後に限ると心得べきなり。
  また大聖人云わく、「妙法蓮華経如来」と「神」との「力」を説いた「品」と心得べきである。「如来」とは、一切衆生であり、寿量品第十六の時と同じである。よって、天台の釈にも「『如来』は上に釈したとおりである」と言っている。この「神」とは、叡山の山王七社等のことである。この旨これを案ずべきなり(深く思慮しなければならない)。

 

<講義>

妙法蓮華経如来神力品第二十一の題号について、二つの読み方を示され、その甚深の義を述べられている。

一つには、妙法蓮華経とは、釈迦在世の法華経二十八品ではなく、末法弘通の三大秘法の南無妙法蓮華経である。如来とは、末法御出現の御本仏日蓮大聖人である。しかして、神力とは、末法に唱えるところの三大秘法の題目である。

もう一つは、妙法蓮華経如来と神との力の品と読み、「妙法蓮華経如来」とは一切衆生に厳然と具わっているところの仏界の生命をいう。「神」とは諸天善神である。この二つは、正報と依報とも約せる。御本尊を無二と信じて、南無妙法蓮華経と唱えた時、正報である己心の仏界が湧現し、依報の諸天善神が力を得て、絶対にこわれることのない、最高の幸福生活へと導いていくのである。(476頁)

 

【ここから先の講義が私は好きなんですが、まとめて書くのはちょっと難しい。うーーーーーはい、では、ちょこっとだけ書いておきます。】

 

南無妙法蓮華経上行菩薩に付属する儀式はすでに宝塔品第十一に始まっており、地涌の菩薩の出現は湧出品第十五ですから、それまでは序分の儀式ということになります。

宝塔品第十一で「誰か能く此の娑婆世界において、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして、まさに涅槃に入るべし。(もうじき亡くなりはるで~と言ってます)仏この妙法華経を以って付属して在ること有らしめんと欲す」と。ここに、上行菩薩への付属の遠序があることは明瞭である。

 

この宝塔品第十一の三箇の勅宣についで、提婆達多品第十二の諌暁があって、更に詳しく滅後の弘通を勧め、それに応えて、迹化の大衆は勧持、安楽の両品で滅後の誓いを述べる。

しかし、釈尊は湧出品第十五において、「止みね善男子、汝等がこの経を護持せんことをもちいじ。所以はいかん。わが娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。この諸人等能く我が滅後において、護持し、読誦し、広くこの経を説かん」と迹化の願いを封じて、本化地涌の菩薩を召し出すのである。

 

したがって、宝塔・提婆両品の鳳詔、勧持・安楽両品の誓いは、共に末法弘通の使命の重大性を示すためであったといえるのである。こうして、上行菩薩への付属の儀式はその法体たる南無妙法蓮華経が説き顕される寿量品第十六において最高潮に達する。

この寿量品に次いで、分別功徳品第十七、随喜功徳品第十八、法師功徳品第十九と、信心、修行の功徳を説き、常不軽品第二十では逆縁の功徳を述べ、この神力品第二十一および嘱累品第二十二にいたって、総別の付属が終わるのである。

したがって、この妙法蓮華経上行菩薩に付属された南無妙法蓮華経であって、釈迦の法華経二十八品ではない。総じて、法華経自体、その正意はまったく滅後末法の三大秘法の大白法をあらわさんがためのものであることを知らなければならない。

 

所詮妙法蓮華経の五字は神と力となり 

文句の十にあるごとく「神」は不測(ふしき=不可思議)に名づけ、天然の体(無作の三身)深きことをあらわす。「力」は幹用(かんゆう)に名づけ、転変の力大なるをあらわす。妙法蓮華経の五字は、御本尊という甚深の体をもち、一切衆生を即身成仏せしめるという広大無辺の力がある。これを兼ね備えたのが妙法であり、決して単なる観念論ではない。

 

また、「二十八品悉南無妙法蓮華経の事」では、「神とは心、法力とは色法なり」と色心の二法にも配せられている。これまた、神力といっても、観念的、空想的なものではなく、色心の二法をそなえた現実のものであり、厳然たる生命の法理にかなった現象であることを明示されているのである。

十種の神力といっても、「此の神力とは十界三千の衆生なり、凡夫は体の神力・三世の諸仏は用の神力なり」とあり、経に仏が現じたという神力は、末法の今、我ら凡夫が妙法を唱えて現ずる神力、すなわち生命の力、人間革命の現象の影にすぎないと断言されているのである。

その実体であり根本である神力とは「十界皆成(かいじょう)と談ずるより外の諸仏の神力は之れあるべからず」と十界の衆生が即身成仏することであると仰せである。なんと偉大な哲学であり、深遠な法門であり、そして、広大な慈悲であることか。

 

しかして、神とは諸天善神である。正報である我が己心の仏界が湧現したとき、依報たる大宇宙のあらゆる諸天善神が力を得て、我々を護ってくれるのである。