第二 「出広長舌(すいこうちょうぜつ=広長舌を出だしたもう)」の事
御義口伝に云わく、「広」とは迹門、「長」とは本門、「舌」とは中道法性である。十法界は、皆ことごとく妙法の功徳であるから「広」といい、竪に高いところから「長」というのである。「広」とは三千塵点より已来の妙法の意であり、「長」とは五百塵点より已来の妙法ということである。この三つは、それぞれ違った観点であるが、同じく「広長舌」のあらわすところの意義である。
<講義より>
大聖人は、この広長舌ということについて、観心の立場より「広」とは横に、空間的に広い、すなわち十法界を網羅するとの意で、迹門をあらわし、、「長」とは、竪(たて)に、時間論の上で長い、即ち、生命の長遠をあらわすとの意で、本門を意味すると教えられている。
しかして、「舌」とは、実体であるゆえに、中道法性の当体たる独一本門の御本尊を意味するのである。ゆえに、我らが受持する御本尊は、法華経本迹二門の極理であり、空間的には、大宇宙をおさめ、時間論的には、永遠を含んでいるのである。
したがって、御本尊を信じて題目を唱え、境地冥合するならば、大宇宙の一切の功徳を一身に集め、永遠の生命を覚知することができるのである。
第三 「十方世界、衆宝樹下、師子座上(十方の世界の衆の宝樹の下、師子座の上)」の事
御義口伝に云わく、「十方」とは、十界である。この下(しも)において、草木成仏、分明である。「師子」とは、「師」は師匠、「子」は弟子である。「座上」とは、寂光土であり、十界即本有の寂光国土をいうのである。
<講義>
師弟不二の信心のあるところ、その国土世間は即寂光土であるとの甚深の義を示されている。仏法の究極は師弟相対、師弟不二にあるといっても過言ではない。師は原理を示し、弟子は師匠の教えを微塵も誤りなく実践し、応用化して、師匠の理想を身をもって実現していくのである。
(中略)
自己の真剣な信心の研鑽と成長とは、必ず、依正不二で、幸福なる社会、平和な世界の建設に直結していることを確信すべきである。