御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

不可惜所領事  四条金吾殿御返事 1163頁 56歳御作

 5月7日に頼基陳情について書きましたが、御書でいえばその次にくるお手紙です。

建治三年には桑ケ谷津問答が起こり、金吾は法座を乱した言われ主君から法華経を捨てるという誓約を書くよう命じられました。しかし、金吾は決して誓約は書かないと大聖人にお誓いしたのです。本抄は金吾のその報告に対する御返事です。

講義から:

人生の岐路に立たされた時大切なことは何れの道を取るべきかについて正しい判断をし、決断をすることである。英知と勇気が人生を勝利に導くのです。

御書の通解

凡夫の常として、自分の身の上は計り難いのであり、それを熟知するのを賢人・聖人というのである。

「自分のこと、自分はどう生きるべきかを知っているのが賢人・聖人である」と言われています。外の世界の事、他人のことをいくら知っていてもそれは真の賢人・聖人ではない。外の世界のことを知っている人は学者ではあるが賢人ではない。他人のことを知っているのも批評家ではありえても賢人ではない。人間として最も尊い自己の人間的価値に結びついている「知」とは身の上の事、つまり自分自身についてのそれである。

御書の通解:

人間の一生は夢の上の出来事のようにはかないもので明日の命もわからないものである。いかなる乞食になっても法華経にきずをつけてはならない。それゆえ同じ一生であるならば、嘆いた様子を見せないでこの誓状に書かれたように、少しもへつらわずに振る舞い語っていきなさい。なまじへつらうようなことがあればかえって悪くなるであろう。たとえ、所領を没収され、追い出されても、それは十羅刹女の御計いであるのだろうと思って、深く信をとり諸天にゆだねておきなさい。日蓮流罪されないで鎌倉にでもいたならば、あの戦いの折にきっと打ちころされていたに違いない。あなたが御内を追い出されたこともまた、主君の御内にいてはよくないであろうという釈迦仏の御計いなのであろう。

「 社会的にどのような立場になろうとも、人間として卑屈になりへつらうようなことがあってはならない。卑屈になることこそ、法華経にきずをつけることになるのだと言われています。社会的評価の問題ではない。社会で敗北を喫しそれによって世間が更に仏法の悪口をいい、大聖人一門への批判の声を高めたとしても、それは法華経のきずではない。人間としての尊厳を失い、卑屈になり、信心を失うことが法華経にきずをつけることなのだ。」ということです。入信した当初からよく教えられた御書ですが、そういうことだったのですね。

もう一回!御書の本文!

「一生は夢の上、明日を期せず。いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給うべからず」!!!