本抄は大聖人の弟子であった大進房が退転して死に、その坊が空き家になったので、早く日昭の坊と合併して広くするよう仰せになったお手紙です。
この御抄の背景はよくわかりませんが、御文から、大進房が池上氏の請いによって、その地に坊を建立していたと思われる。大進房はかつて、大聖人門下の長老であったが、のち退転し、逆に門下を迫害し、落馬によって死去したのである。だが門下の長老として位置していた時には、日昭とよく連絡を保っていたと思われ、自分の坊を日昭に託すという譲り状まで認めていたようである。
大聖人は、故人の譲り状によって早く日昭の坊と併合して、それを広布の牙城にすべき旨を指導されている。
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両人御中御書
弘安2年(ʼ79)10月20日 58歳 日朗・池上宗仲
大国阿闍梨(日朗)・えもんのたゆう(右衛門大夫)宗仲殿等に申しあげる。
故大進阿闍梨の坊は各々が処置されたと思っていたのに、今もって人も住していないというのはどういうことか。
ゆずり状がなければ、人々も相談するであろう。くわしく承ってみれば、べんの阿闍梨にゆずられたと聞いている。また異議があるとも思えない。それに、譲り状を用いられないのは、別のわけがあるのか。その子細なくば(別のわけがなければ)、大国阿闍梨・大夫殿の御計らいとして、弁阿闍梨の坊へ壊してわたしなさい。
弁の阿闍梨日昭は心の賢い人であるから、どうしたわけかと思っているであろう。
弁阿闍梨の坊をすり(修理)して、広くし、雨ももらないようにすれば、(参詣の)諸人の御ために、貴重なものになると思われる。冬は(火事で)家が焼亡することが多い。もし、焼けたりしたら、損害であるし、物笑いともなるであろう。この手紙が着いてから両三日が内に、一切を落着させて、各々こちらに返事をください。恐々謹言。
十月二十日 日蓮 花押
両人御中
故人のゆずり状に相違してはならない。