御書大好き!!

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富城入道殿御返事 993頁 新版御書1349頁 講義録17巻

弘安4年(1280年)10月22日

大聖人が60歳の時身延で著され富木常忍に与えられたお手紙です。

別名は「弘安の役の事」。

この年の5月から7月にかけて北九州地方に攻めてきた蒙古軍が台風によって壊滅したことについて、世間では奈良、西大寺の思円上人の蒙古調伏の祈祷によると評判していると富木常忍からの書状に対して、大聖人は真言の邪法による祈祷が成就するはずがないと、承久の乱からの例を引いて述べています。

特に、幕府を真言の祈祷で調伏した朝廷側が敗れて、高僧たちが恥辱にあった承久の乱の合戦の様子を詳しく書かれています。

 

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富城入道殿御返事(弘安の役の事)

 弘安4年(ʼ81)10月22日 60歳 富木常忍

 今月十四日の御札(お手紙)、同じく十七日に到来しました。また去る後(閏=うるう)七月十五日の御消息、同じく二十日ごろに到着しました。そのほか度々のあなたからお手紙を賜うといえども、老病の身の上であり、また食事が進まないので、いまだ返事をさしあげていないことを恐縮に思っています。
 何よりも去る後(閏)七月の御状の中に「鎮西(ちんぜい)には大風が吹いて、浦々・島々に破損の船が充満している、また京都で思円上人(の調伏の祈祷によって蒙古が敗れたと言われている)」。また「そのような道理があるでしょうか」等云々。このこと、別してはこの一門の大事なり、総じては日本国の凶事なり。よって病を忍んで一端これを申しあげよう。
 これひとえに日蓮を失わんとして、無かろう事を造り出ださんこと、兼ねてから知っている。その故は、日本国の真言宗等の七宗・八宗の人々の大科(大悪事)、今に始まったことではない。ではあるけれども、しばらく一を挙げて万をお知らせしよう


 去ぬる承久(3年)年中に隠岐法皇、義時を失わしめんがために、調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられる。よって同じく三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光季を六波羅において失わしめ畢わんぬ(殺害させたのである)。

そうする間に、同じく五月十九日二十日、鎌倉中が騒いで、同じく二十一日、東山道・東海道北陸道の三道より十九万騎の兵者を出発させた。同じく六月十三日、その夜の戌亥の時から青天にわかに曇って震動・雷電して、武士どもの頭の上に鳴り懸かり鳴り懸かりし上、車軸のような雨は篠(しの)を立てたようであった。

ここに十九万騎の兵たちは、遠い道を登り、兵乱のために米は尽きてしまった。馬も疲れ、在家の人(付近の住人)は皆隠れてしまった。冑(かぶと)は雨に打たれて綿(わた)のようだった。武士ども、宇治・勢田に打ち寄せて見れば、いつもは三丁四丁の幅の河なのが、既に六丁七丁十丁に及んでいる。しかるあいだ、一丈二丈の大石は枯れ葉のごとく浮かび、五丈六丈の大木によって流れが塞がることも間(ひま)がない。昔(足利)俊綱と(佐々木)高綱等が渡った時には比べることもできなかった。武士これを見て皆臆したように見えたが、今日を過ごしてしまえば、皆心を翻して京都側に堕ちてしまうだろう。そのために馬筏(うまいかだ)を作って、向こう岸に渡ろうとしたところ、あるいは百騎、あるいは千万騎、かくのごとく皆我も我もと渡るといえども、あるいは一丁、あるいは二丁三丁渡るようなりといえども、向こう岸に付く者は一人も無い。しかるあいだ、緋綴(ひおどし)・赤綴(あかおどし)等の冑(よろい)、その外、弓箭兵杖、白星の甲等の河中に流れ浮かぶことは、なお長月・神無月の紅葉の吉野・立田河に浮かぶようであった。
 ここに叡山・東寺・七寺・園城等の高僧等これを聞くことを得て、真言の秘法・大法の験とこそ悦び給いける。内裏の紫宸殿には、山の座主・東寺・御室、五壇・十五壇の法をいよいよ盛んに行われければ、法皇の御叡感極まり無く、玉の厳りを地に付け、大法師等の御足を御手にて摩で給いしかば、大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち、五体を地に付け、高僧等を敬った。
 また、宇治・勢田にむかえたる公卿・殿上人は、甲を震い挙げて、大音声を放って云わく「義時所従の毛人ら、たしかに聞け。昔より今に至るまで、王法(朝廷)に敵対した者で、安穏であった者がいるか。

狗犬が師子を吼えてその腹破れざることなく、修羅が日月を射るに、その箭還ってその眼に当たらなかったことはない。遠き例はしばらくこれを置く。近くは我が朝に代始まって人王八十余代の間、大山皇子・大石小丸を始めとなして二十余人、王法に敵をなし奉れども、一人として素懐を遂げたる者なし。皆、頸を獄門に懸けられ、骸を山野に曝す。関東の武士等、あるいは源平、あるいは高家等、先祖相伝の君を捨て奉り、伊豆国の民たる義時が下知に随うが故に、かかる災難は出来するなり。王法に背き奉り民の下知に随うは、師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するがごとし。今生の恥これをいかんせん。急ぎ急ぎ甲を脱ぎ弓弦をはずして、降参せよ、降参せよ」と招いた。ところがどうしたことか。 申酉の時になると、関東の武士等、河を馳せ渡り、勝ちほこって責めたので、京都方の武者ども、一人も残らず山林に逃げ隠れてしまった。

(そこで関東の武士たちは、)四人の王を四つの島へ流罪にしてしまい、また高僧・御師・御房たちは、あるいは住房を追われ、あるいは恥辱に値い給いて、今に六十年の間、いまだその恥をすすいでいないと思われているのに、今また彼の僧侶の御弟子たち、御祈禱を仰せつけられたようである。そして、いつものことなれば、秋風によりわずかの水(波浪)に敵船・賊船が破損したのを、「蒙古の大将軍を生け取りにした」などと申して、祈り成就したなどと吹聴しているのである。また、「蒙古の大王の頸が届いたか」と反問すべきである。その外は、どのように言っても返事してはならない。御存知のためにあらあら申したのである。なお、このことは、一門の人々にも伝えておきなさい。
 また、必ず椎地四郎がことは承知いたしました。予(私)は、既に六十にもなったので、天台大師の御恩報じようと思って、見苦しくなっている僧房を修繕・改築する費用として御供養の銭を使用した。

銭四貫を供養して一閻浮提第一の法華堂を造ったと、霊山浄土に参られた時は申しあげられるがよい。恐々謹言。
  十月二十二日    日蓮 花押
 進上 富城入道殿御返事