第四 「得仏法分(仏法の分を得たり)」の事
御義口伝に云わく、「仏法分」とは、初住の一分の中道を云うなり。【「仏法の分」とは、舎利弗が迹門の開三顕一の説法において、中道の悟りの一分を得て、初住の位にのぼったということである。】
「迹門初住、本門二住已上」と云うことは、この「分」の字より起こるなり。【迹門において初住の位、本門の開近顕遠に来至して二住已上の位ということは、この譬喩品において「仏法の分を得たり」ということから、分別されてくるのである。
詮ずるところ、この「分」の一字は一念三千の法門のことである。その故は、地獄は地獄の分際において仏果を証得するのであり、乃至、三千の諸法はすべて己々の当体の分において仏果を証得したのである。
(これこそ、)真実の我らの即身成仏なのである。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱うる分にて仏果を証得するのである。「分」とは、権教は無得道、法華経(南無妙法蓮華経)は成仏できるのであると(厳しく)分別すると意(こころ)得べきである。
また云わく、「分」とは、本門寿量品の意なり。【寿量品の文底に秘沈せられたる南無妙法蓮華経のことである。】
己々本分の分という意味になるのである。総じて、迹門初住分証(一分の証得)と云うのは、文上教相の所談であり、真実は(文底観心の意味では)本因初住位において、妙法蓮華経の究極の悟りを得るのである。分証のところにて一経は極まりたるなり。
※初住とは、絶対に退転しないという決意をした信心。不退転の位のこと。
広宣流布に向かって進んでいこうと決意した時、その一念の中に絶対に崩れない幸福境涯が築かれている。これが「一経は極りたるなり」の意味である。そこに一切の功徳が雲集してくることは絶対である。
第五 「而自廻転(しかして自ずから廻転す)」の事
記の五に云わく「あるいは大論のごとし。経に『而自廻転』と云うは、身子の記を得るを聞いて、法性自然にして転じ、因果・依正・自他ことごとく転ずるを表す」。
御義口伝に云わく、草木成仏の証文に「而自廻転」の文を出だすなり。これ一念三千の依正体一の成仏を説き極めたるなり。草木成仏の証人とは、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るを指すなり。「廻転」とは、題目の五字なり。「自」とは、我ら行者のことなり。記の五の釈、能く能くこれを思うべし云々。
<講義より>
「而自廻転」とはつまり宿命転換のことである、と講義にありました。長い講義を一言でいうとそういうことです。
宇宙の根源の南無妙法蓮華経という大生命を日蓮大聖人が一幅の御本尊に顕されて、それに境地冥合することで今まで積んできた悪しき宿命も善い宿命に転じることができる。環境を変え環境を支配していくことが「而自廻転」であるとも書かれている。戦争を平和に変えていくのも妙法の力であり「而自廻転」なのである、と。