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信解品六箇の大事  第一「信解品」の事  新版 1011頁~1012頁

信解品六箇の大事
第一 「信解品」の事
  記の六に云わく「正法華には『信楽品』と名づく。その義通ずといえども、『楽』は『解』に及ばず。今、領解を明かす。何をもってか『楽』と云わん」。
  御義口伝に云わく、法華一部二十八品の題号の中に、「信解」の題号、この品にこれ有り。一念三千も「信」の一字より起こり、三世の諸仏の成道も「信」の一字より起こるなり。この「信」の字、元品の無明を切る利剣なり。その故は、「信」は、「疑いなきを『信』と曰う」とて、疑惑を断破する利剣なり「解」とは、智慧の異名なり「信」は価のごとく、「解」は宝のごとし。三世の諸仏の智慧をかうは「信」の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり。「信」は智慧の因にして名字即なり。「信」の外に「解」無く、「解」の外に「信」無し。「信」の一字をもって妙覚の種子と定めたり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と信受・領納する故に、「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)」の大宝珠を得るなり。信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり。
  また云わく、「信」は、不変真如の理なり。その故は、「信」は、「一切法は皆これ仏法なりと知る」と体達(たいだつ)して、実相の一理と信ずるなり。「解」は、随縁真如なり。自受用智を云うなり。文句の九に云わく「疑いなきを『信』と曰う。明了なるを『解』と曰う」。文句の六に云わく「中根の人、譬喩を説くを聞いて、初めて疑惑を破して大乗の見道に入る。故に名づけて『信』となす。進んで大乗の修道に入る故に名づけて『解』となす」。記の六に云わく「大をもってこれに望むるに、乃ち両字を分かちて、もって二道に属す。疑いを破するが故に『信』なり進んで入るを『解』と名づく。『信』は二道に通じ、『解』はただ修のみに在り。故に修道を『解』と名づくと云う」。

 

(語句の解説)

大乗の見道に入る。故に名づけて『信』となす。

大道とは一仏乗のことであり、見道とは、三界六道における苦果の因である見思の惑を断じ尽くすことである。そして、見道では。随信行、随法行が中心であると説かれている。したがって、見思の惑を破して一仏乗の妙法を信ずるがゆえに、信と名付けているのである。

 

大乗の見道に入る。故に名づけて『信』となす。

見思の煩悩を断じて、七聖の位を得るのであるが、修道とはそのうちの第二番目であり、さらに分かれて信解、見徳、見証の三つの位になる。したがって一仏乗の妙法を信じ、信解の位になるがゆえに、解と名付けるのである。