この御書は長いです。私の拡大版の御書で5頁あります。昨日書いた妙心尼の旦那さんの高橋殿です。詳しくは今度まとめてスピンオフで書きますね。
今回は全文一気に現代文に変えて載せます。
建治元年(ʼ75)7月12日 54歳 高橋六郎兵衛
進上 高橋入道殿御返事 日蓮
我らの慈悲深き父、大覚世尊は、人々の寿命が百歳であった時代に中天竺に現れ、一切の衆生を救うために一代の聖なる教えを説かれました。仏がこの世におられた時代の人々は、過去世の因縁によって仏との縁が深く、すでに道を得て成仏することができました。しかし、仏は「私が滅後した後の衆生たちはどうなるのだろうか」と深く憂慮されました。
そこで八万の聖教を文字として残し、その中で小乗経は迦葉尊者に、大乗経および法華経・涅槃経などは文殊師利菩薩に委ねられました。ただし、一代聖教の核心であり、法華経の眼目たる「妙法蓮華経」の五字については、迦葉や阿難にも、また文殊、普賢、観音、弥勒、地蔵、竜樹などの大菩薩にも授けられませんでした。これらの偉大な菩薩たちが熱心に願い出たものの、仏は許されなかったのです。
その後、仏は大地の底より上行菩薩という老菩薩を召し出し、多宝仏や十方の諸仏が見守る中で、釈迦如来が七宝の塔の中にて「妙法蓮華経」の五字を上行菩薩にお授けになられました。
その理由は、私が滅後した後も、一切の衆生は皆、私の子であり、どの者に対しても平等に慈悲を注ぐべき存在であるからです。しかし、医師が病の種類に応じて薬を与えるように、衆生の状況に合わせて法を授けるのが適切であると考えました。
私の滅後、最初の五百年(正法の時代)には、迦葉や阿難に、小乗経の教えという薬をもって一切衆生を救うように命じました。その次の五百年(像法の前期)には、文殊師利菩薩、弥勒菩薩、竜樹菩薩、天親菩薩らが、華厳経、大日経、般若経などの大乗経を薬として衆生に与えるようにしました。そして、像法の後期には、薬王菩薩や観世音菩薩が法華経の題目を除いた他の教えを用いて衆生を導くよう指示しました。
しかし、末法に入ったならば、迦葉や阿難、文殊や弥勒菩薩、薬王や観音らが授けた小乗経や大乗経、さらには法華経でさえも、もはや衆生の病を癒やす薬とはなり得ません。いわば、病は重くなり、以前の薬では効果が薄いからです。その時、上行菩薩が出現し、「妙法蓮華経」の五字をもって、一閻浮提(世界)のすべての衆生を救済するのです。
その時、一切衆生はこの上行菩薩を敵視するでしょう。たとえば、猿が犬を憎むように、鬼神が人間に敵意を抱くように、過去の不軽菩薩が一切衆生に軽視され、さらには杖や石で攻撃されたことの再現のようになるでしょう。また、覚徳比丘が命を奪われたような迫害を受けることも起こり得ます。
その時には、迦葉や阿難は霊山に隠れたり恒河に沈んだりしてしまい、弥勒や文殊は兜率天の内院や香山に身を隠すでしょう。観世音菩薩は西方へ戻り、普賢菩薩は東方へ帰られるのです。その結果、諸経を修行する者はいても、それを守護する存在がいなくなるため、経典の力で利益を与えることができなくなります。諸仏の名号を唱える者がいたとしても、天神はそれを守護しなくなるでしょう。その姿は、母親から離れた子牛や、鷹に追われる金鳥のように無力なものとなります。
その時、十方世界の大鬼神が一閻浮提に充満し、人々に取り憑きます。鬼神は四衆(在家・出家の男女)の身に入り込み、父母を攻撃させたり、兄弟を失わせたりするでしょう。特に、国中の知識人や持戒を装う僧尼たちの心に鬼神が入り込み、国主や臣下を惑わせます。その結果、世の中はさらに混乱し、上行菩薩が率いる者たちが法華経の題目、すなわち「南無妙法蓮華経」の五字を一切衆生に与えようとすると、四衆や大僧侶たちはこの人々を徹底的に憎むようになります。その憎しみはまるで父母の仇、過去世からの宿敵、あるいは国家の敵に向けられるほどの激しいものとなるでしょう。
その時、大きな天変地異が起こるでしょう。たとえば、日や月が蝕され、大きな彗星が空を横切り、大地震が発生して、水面の波紋のように大地が揺れ動くといった現象が現れます。その後、自界叛逆難と呼ばれる内乱が起こり、国主や兄弟、国中の有力者たちが互いに争い、殺し合うことになるでしょう。さらには、他国侵逼難と呼ばれる外敵の侵略が始まり、隣国から攻められて、多くの人々が捕虜にされたり、自害したりする事態に陥ります。国中の上下万民が皆、大きな苦しみに直面することになるのです。
これらの災難が起こる原因はただ一つです。それは、上行菩薩の教えを受け継ぎ、法華経の題目を広めようとする人々を、迫害し、侮辱し、流罪にし、ついには命を奪うような行為を行うためです。このような行いに対し、仏の前で誓いを立てた梵天、帝釈、日月、四天王たちが、「法華経の行者を迫害する者を、父母の仇よりも厳しく罰する」と誓ったことが原因だと考えられます。
この状況の中で、日蓮は日本に生まれ、一切経と法華経という明鏡を用いて、日本国中の一切衆生の心を照らしました。その結果、仏が予言された通りの天変地異や災難が起こっていることが明らかになりました。この事実が、仏の記した教えが寸分も違わぬものであることを証明しています。
「この国が必ず亡国となるだろう」と予感していたため、そのことを国主に申し上げれば、もし国土を安穏にする意志があるなら、深く探求して受け入れるだろうと考えました。しかし、亡国が避けられない運命ならば、決して用いられることはないでしょう。その場合、日蓮が流罪や死罪となることも覚悟の上でした。それでも仏は戒めて、「このことを知りながら、自分の命を惜しみ、一切衆生に伝えないなら、ただ我が敵となるだけでなく、一切衆生の怨敵ともなる。必ず阿鼻地獄の大城に堕ちる」と教えられました。
そのような中で、日蓮は深く悩みました。「このことを申し上げれば、私の身はどうなっても構わないが、父母や兄弟、さらには多くの民衆の中で、たとえ一人であっても私に従う者がいれば、その者は国主や民衆から敵視されるだろう。もしそのような迫害を受ければ、仏法をまだ理解しきれない者たちにとって、その苦しみは耐え難いものになるだろう」と。
仏法を実践することは本来、安穏をもたらすものであるべきなのに、この法を守るゆえに大難が生じることは、まさに死を超える覚悟が必要です。さらに、この法を邪法だと誹謗すれば、誹謗者は悪道に堕ちる運命にあります。それもまた、不憫でなりません。しかし、もしこれを申し上げずに黙っていれば、仏の誓いに背く上に、一切衆生の怨敵となり、大阿鼻地獄に堕ちることは避けられません。
最終的に、どうすべきか深く悩み抜いた末、日蓮は思い切って真実を申し上げる道を選びました。その覚悟の下で行動を起こしたのです。
申し始めた以上、途中で引き下がるわけにはいかず、さらに強く訴え続けました。その結果、仏が記した予言の通り、国主も私を敵視し、民衆からも責め立てられました。彼らが敵対するゆえに天も怒り、日月に異変が起こり、大彗星が現れ、大地は激しく揺れ動きました。国内では内乱が起こり、ついには他国からの侵略も始まりました。こうして、仏が予言されたことは寸分の狂いもなく実現し、私が法華経の行者であることは疑いようもありません。
ただし、昨年、鎌倉からこの地に逃れてきた際には、道中で皆様に申し上げるべきことがあったのですが、結局それを伝えられませんでした。また、先頃いただいたご返事についてもお答え申し上げなかったことは、特に理由があったわけではありません。何かにつけて皆様を疎かにするような心は一切ございません。むしろ、念仏者・禅宗・真言師といった敵対者や国主までも救おうとして訴え続けてきたのです。その彼らが敵対してくるのは、かえって不憫に思えてなりません。
ましてや、一日でも私の味方として心を寄せてくださる方々を、どうしてなおざりにできるでしょうか。世間の恐ろしさにより、妻子を抱える人々が私から離れていくのを目の当たりにするのは、私にとってかえって喜ばしいことです。私に関わることで、助けてくれる人もおらず、少しばかりの所領までも召し上げられることになれば、何も知らぬ妻子や使用人たちがどれほど嘆き悲しむかと心苦しく思うのです。
昨年の二月、私にかけられていた勘気が解かれ、三月十三日に佐渡国を発ち、同月二十六日に鎌倉に入りました。そして四月八日、平左衛門尉(平頼綱)と面会した際、いろいろな話をした中で、「蒙古国(元)はいつ攻めてくるのか」と尋ねられました。それに対し、私は「今年攻めてくるでしょう」と答えました。そしてこう続けました。
「日蓮には、日本国を救えるような者は一人もおりません。しかし、この国を救いたいのであれば、日本中の念仏者、禅宗の僧、律宗の僧たちの首をはね、由比ヶ浜にさらすべきです。それもす でに機を逸してしまいました。ただし、人々は皆、日蓮が念仏、禅、律を非難していると思っています。しかし、それらは大した問題ではありません。真に恐れるべきは真言宗です。真言宗こそ、日本国に災いをもたらす大いなる呪詛の悪法です。
弘法大師(空海)や慈覚大師(円仁)がこの誤った教えに惑わされ、この国を滅ぼす原因を作りました。このまま真言宗の僧たちに祈らせ続けるのであれば、たとえ二年や三年で滅びるはずの国でも、一年、あるいは半年のうちに他国から攻め込まれるでしょう」と申し上げました。
助けるために申し上げたことが、これほどまでに恨まれることとなったので、佐渡国から解き放たれたときには、山中や海辺のどこかに隠れ住むべきだったかもしれません。しかし、私はもう一度、平左衛門尉にこの事を申し伝え、日本国で救われることなく苦しむ衆生を助けるために鎌倉へ上ったのです。そして、申し伝えた後は、鎌倉に留まることはできないと思い、足の向くままに出発しました。
途中、便宜により皆様にお会いしようと思ったこともありました。たとえ迷惑をおかけするかもしれないとわかっていても、今一度お目にかかりたいと千度も心に思いましたが、自らの心を抑えて、そのまま過ぎ去りました。
その理由は、駿河国は守殿(北条時頼)の所領であり、特に富士付近には後家尼御前(北条時頼の未亡人)の関係者が多いからです。彼らは「故最明寺殿(時頼)・極楽寺殿(時宗)の仇」として、私に憤りを感じていることでしょう。そのような人々の耳に入れば、皆様にもご迷惑がかかると思い、それが心苦しかったのです。そのため、今に至るまで返信すらできずにおります。
この御房たちが道中で立ち寄る際にも、「くれぐれも富士や梶間の辺りには近づくべきではない」と申し伝えたのですが、どのようになっているのか、心配でなりません。
ただし、真言宗のことについて御不審を抱いておられることでしょう。いくら法門を説いても、理解しがたいところもあるかもしれません。しかし、眼前の事実をもって判断していただければと思います。
隠岐法皇は、人王第八十二代の天皇であり、神武天皇以来二千年以上、天照大神が歴代の天皇にその御魂を移しお守りになられた存在です。そのような尊い身分の方に、いかなる者が敵対することができるでしょうか。欽明天皇から隠岐法皇に至るまで、漢土・百済・新羅・高麗から伝えられた大法や秘法が、叡山・東寺・園城寺をはじめとする日本国の寺院で崇められてきました。これらはすべて国を守り、国主をお護りするためのものです。
しかし、隠岐法皇は鎌倉幕府によって政権を奪われたことを悔しく思われ、叡山や東寺などの高僧たちを招いて、「義時の命を取り去れ」と密かに祈祷を行わせました。この調伏(敵を降伏させる祈祷)は一年や二年で終わるものではなく、数年にわたって続けられましたが、幕府側の執権(北条義時)はこれを夢にも恐れず、まったく影響を受けることがありませんでした。また、たとえ祈祷が行われても、それが叶う見込みもありませんでした。結果として、天皇は戦に敗北し、隠岐国へ配流されることとなりました。
日本国の天皇は天照大神の御魂を宿された存在です。そのような天皇が、仏教の戒律を守る力により国を統治し、万民の中で支持されないことなどあり得ません。たとえ天皇に過ちがあったとしても、それは親に罪があっても子が親を憎むことができないようなものです。それにもかかわらず、隠岐法皇がそのような屈辱に遭われたのは、何よりも法華経の怨敵である日本国の真言宗の僧たちと関わったからにほかなりません。
一切の真言宗の僧たちは、灌頂と称して釈迦仏などを八葉の蓮華に描き、それを足で踏むという秘儀を行っています。このような不思議な振る舞いをする者たちが、諸山や諸寺の別当に迎えられ、崇められているため、庶民にまでその悪影響が及び、現世で恥辱を被ることになりました。この真言宗の大悪法は、鎌倉にも浸透し、御一門を惑わし、日本国を滅ぼそうとしています。
この問題が重大であったため、日蓮は弟子たちにもこのことを語らず、表向きには念仏や禅宗を批判するにとどめていました。しかし、今となっては真言宗の害が顕著になり、隠すこともできないため、命を惜しまず弟子たちにも真実を告げています。
こう述べると、「日蓮がいかに尊くとも、慈覚大師や弘法大師を超えるなど考えられるだろうか」という疑問を抱かれるかもしれません。その疑念は容易に晴れるものではありませんが、これをどう説明するべきでしょうか。
しかし、これまでのわずかな信用を得て、質問を受けるに至ったのは、単なる今生の縁ではなく、きっと過去世からの深い因縁によるものでしょう。
御所労(病)のこと、大変お気の毒に存じます。しかし、剣は敵を討つために必要であり、薬は病を癒すためにあるものです。阿闍世王も父を殺し、仏の敵となりましたが、悪瘡が身に現れて苦しんだ後に仏に帰依し、法華経を持つことで悪瘡が癒え、寿命を40年延ばしました。
法華経には「閻浮提の人の病の良薬」と説かれています。閻浮提の人は皆、病を抱えており、法華経の教えがその薬となるのです。三つの条件(法華経を信じる因縁、病を癒す願い、適切な機会)が既に整っているので、御身が救われないことはないでしょう。ただし、もし疑念がおありであれば、助ける力も及ばないのです。
どうか、南無妙法蓮華経の信仰を深めてください。南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
七月十二日 日蓮 花押
御返事
覚乗房・はわき房に度々読ませて、しっかりとご理解なさるようにお願いいたします。