御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

出家功徳御書 1251頁 58歳御作

弘安二年五月身延で著された。内容は題号の通り出家の意義とその功徳について。また※還俗するものの浅はかさ、愚かさを経文を引き教えられている。

 ※還俗とは出家したものが再び俗人にかえる事。

1頁半くらいなので、全文を現代語で載せます。古語だけどよく出てきてわかりやすい言葉は( )で現代語を書いています。気になった言葉は※で説明しています。

 

[御書の現代文]

近頃、誰かが聞いて申すことには、内々に還俗の心が生じているとのこと、そういう風分があるが、本当のことなのであろうか。それとも虚事であろうか。心配なので一筆書いた次第である。

およそ父母の家を出でて僧となる事は必ず父母を助ける道である。出家功徳経に云く「高さ三十三天に届くほどの百千の塔婆を立てるよりも、一日出家の功徳は勝れたり」と、ゆえにその身は無智無行であっても、かみをそり袈裟をかける僧の姿には、天魔も恐をなすと見える。大集経に云く「頭を剃り袈裟を著れば、持戒及び毀戒(戒を破るもの)も天人は供養する。すなわち仏を供養することになるからである」云云、

又一経の文(ある経文)にある人が海辺を通ると一人の餓鬼がいて喜び踊っていた。そのいわれを尋ぬれば我が七世の孫、今日出家したのだ、その功徳にひかれて出離生死せん事が喜ばしいのだと答えた。ゆえに出家と成る事は我が身が助かるのみならず、親をも助け、上無量の父母まで助かる功徳がある。

されば(ゆえに)人身をうくること難しく、人身をうけても出家と成ること最も難しいことである。であるのに悪縁にあって還俗の念が起る事、浅ましき次第である。金を捨てて石をとり、薬を捨てて毒をとるが如し(ようなものである)、我が身が悪道に堕ちるのみならず、六親眷属をも悪道に引きこむ事は不便の至極である。
 その上、在家の世を渡る辛労はひとかたならず、やがて必ず後悔がある。だからただ親のなされたように道をたがえず、出家でいるべきである。道を違へずば十羅刹女の御守りは堅いであろう。道をたがえた者は神も捨てるというのが道理である。大勢至経に云く「衆生に五の失(とが)有り、必ず悪道に堕ちん。一には出家還俗の失である」

又云く「出家の還俗はその失は五逆に過ぎている」、五逆罪と申すは父を殺し母を殺し仏を打つというような大きな失を五つ集めて五逆罪という。さればこの五逆罪の人は一中劫の間・無間地獄に堕ちて浮ぶ事がないと見える。

 ところが今、この※宿善薫発して出家せる人が、還俗の心がついて落ちるならば、彼の五逆罪の人よりも罪が深く、大地獄に堕ちるという経文である。よくよく此の文を御覧になって思案しなさい。我が身は天よりもふらず地よりも出でず、父母の肉身を分けた身である。我が身を損ずるは父母の身を損ずることである。この道理を弁へて、親の命に随うを孝行という、親の命に背くを不孝というのである。所詮、心にどのような考えが起こっても、身をば教の如く一期(一生涯)出家にて通すならば、自ら冥加も有るであろう。この理に背いて還俗すれば、仏天の御罰を蒙り現世には浅ましくなりはて後生には三悪道に堕ちるであろう。よくよく思案しなさい。身は無智無行であっても形だけ出家であるならば、故郷の人も喜び、私も祝福します。況や(ましてや)よき僧であるならば、なおさらのことである。くわしいことは・後便を期して申し述べよう。
 弘安二年五月 日 日 蓮 花押

 

※過去世に積んだ善根が善い縁にふれて起こり、正しい仏道修行に入ることができること。

 

出家して仏道を目指すのであれば、止めたらだめだよという大聖人の励ましであろうと思いますが、現代では僧侶より社会の中で仏法を行じているのは学会員なので、私たちが出家する意味はないでしょう。