勧発品
是人命終 為千仏授手 令不恐怖 不堕悪趣
この文は、妙法を悟れば分段の身即ち常寂光と顕るるを、「命終」と云うなり。「千仏」とは千如、「御手」とは千如具足なり。故に「不堕悪趣(悪趣に堕ちず)」なり。
いわゆる、南無妙法蓮華経の「御手」なり。
已上、品々の別伝畢わんぬ。
<通解>
勧発品第二十八に「この人命終して千仏手(みて)を授けて恐怖(くふ)せず、悪趣に堕ちざらしめ給うことを為(え)て」とある。この文は普賢菩薩が末法濁悪の世に法華経を受持する行者を守護することを誓い、法を守ることを誓った誓願の言葉である。
この文の意(こころ)は、妙法を悟れば、すなわち御本尊の力を信じ悟れば、六道の迷いの生命がそのまま本有常住、無作三身の常寂光の生命活動と現れていく。これを命終というのである。この文の中の千仏とは千如是のことであり、御手(みて)とは千如を具足していることをいうのである。
したがって、この人は自身が一念三千の当体であることを覚知するがゆえに、悪趣に堕ちないのである。すなわち、南無妙法蓮華経の御手により救われて悪趣に堕ちないのである。
<講義>
普通、命終とは死ぬことと考えられているが、ここで日蓮大聖人が仰せられる意は、宿命転換、人間革命をなして、第二の人生に進むことであると読む。「この人命終して」とは、六道の凡夫としての迷いの人生から、妙法を受持して、確固たる人生観を得て、金剛不壊の幸福境涯へと開くことをいうのである。
誰人にとっても、人生には大なり小なり、いくつかの転換がある。それを決定するものは、思想、哲学であり、宗教である。より高い思想、より優れた哲学、より深い宗教を根底にすれば、その人生は、より偉大な、崇高な人生へと変わる。その転換を恐れて安閑と過ごす人は、所詮平凡な、悔い多き人生になってしまうのである。
あらん限りの叡智と情熱をもって、真剣に求め、戦い、切り開いた人生こそ、最も尊く、美しい、偉大な生涯と言える。生まれつきの身分や、素質に関係なく。
一応別伝はここまでで終わりました。
しかし、まだ、次なんかありますね~
一二十八品悉南無妙法蓮華経の事っていうのが出てきました。
第九の怒涛やと思って、最後まで書きたいと思います。