前にも一度書いてますが、好きな御書なので、長いけど全文現代語訳で載せていきたいと思います。どんどん折伏されて境涯が上がっていく愚人が面白いと思います。愚人、結構素直に信じる人なんです。(笑)
〈現代語訳と難解な文章は解説も付けました〉
人が生まれたからには、死を免れることができない理(ことわり)は、どんなに賢い人であろうと、またどんなに身分の低い者であろうと、誰もが知っています。しかしながら、これを本当に大切なこととして深く考え、それを嘆く人は、千万人に一人もいることは稀です。
目の前で無常が現れると、人は疎遠な人の死を恐れ、親しい人の死を深く嘆くものですが、先に旅立つ命はむなしく、後に残る命が賢いかのように錯覚してしまいます。昨日は他人の死を目にし、今日は別の事柄に心を奪われ、世間の五欲(名誉、財産、快楽など)にとらわれている間に、人生は※1白駒の影(あっという間の時間)のように過ぎ去り、※2羊の歩み(刻々と近づく死)に気づかないままです。
★解説★
※1「白駒のかげ過ぎやすく」という御書。「白駒(はっく)」とは、白い馬のことを指します。白い馬が疾走する様子は非常に速く、その影がさっと地面をかすめるように消えてしまうイメージを持っています。
- ここでは、人生や時間の流れがあっという間に過ぎ去ることを象徴しています。特に、「影」を使うことで、はかなく、形も実体もない儚さを強調しています。
※2「羊の歩み近づくことをしらずして」のところ。「羊の歩み」とは、羊がゆっくりと、しかし着実に歩みを進める様子を指しています。ここでは、死や老いがゆっくりと確実に近づいてくることを暗示しています。
- 人々は、日々の生活に追われているうちに、自分が老いや死に向かって確実に進んでいることに気づかない、という教訓を込めています。★★
〈本文〉
そうして空しく衣食のために苦労し、名声や利益を求める欲望に溺れて、結局は三途(地獄・餓鬼・畜生)の故郷に戻り、六道(六つの迷いの世界)をさまよい続けることでしょう。この真実を知る心のある人ならば、誰がそれを嘆かないでいられるでしょうか。誰がそれを悲しまないでいられるでしょうか。
ああ、この世では、老いも若きもいつ死ぬか分からないのが世の常であり、出会った者は必ず別れるというのが浮き世の道理です。そう考えれば、特に驚くべきことではないのですが、正嘉の初め(1257年ごろ大地震があった)に早く亡くなった人々のことを思い出すと、その無常さが改めて胸に迫ります。
たとえば、幼い子どもを残して旅立つ親もいれば、老いた親を置いて先立つ子もいます。また、まだ壮年(働き盛り)の年齢で、この世を去る人もいます。そんな時の心中はどれほど悲しいことでしょう。旅立つ者も悲しく、残される者もまた悲しいのです。
昔、中国の楚の懐王が神女と交わり、その情が一片の朝の雲のように儚く消えたという話があります。また、劉安が仙人と出会い、その知識により不死を求めようとした話もあります。人は、愛する者との別れに悲しみつつも、後に続く希望にすがるものです。
私のような者が、どうすればこの悲しみや苦しみを癒せるでしょうか。※1昔の人が「世俗的な卑しい心を持つな」といった言葉さえ思い出されます。それでも、このような儚い現世の悲しみを忘れないように、※2難波のもしお草を集めるように、自分の思いを後世に形として残そうとしているのです。
★解説★
※1「かかる山左のいやしき心なれば、身には思いのなかれかし」と云いけん人の古事さえ思い出でられて→「山左(さんさ)」俗世の卑しい考えや心を指します。ここでは、自分の悲しみや執着を卑しいものとし、それにとらわれたくないという姿勢が示されています。
「このような粗野で卑しい心であるならば、そんな心を自分自身には決して持たないようにしたいものだ。」という訳になります。
※2「末の代のわすれがたみにもとて、難波のもしお草をかきあつめ、水くきのあとを形のごとくしるしおくなり。」
「末の代の忘れがたみにもとて」:「後の世の人々に忘れられないようにと思い」
(=未来の人々に伝えたいという思いで)
「難波のもしお草」:古歌に登場する言葉で、移ろいやすい人生や儚い縁を象徴します。難波のもしお草をかきあつめ=過去の出来事や記憶を寄せ集めて
「水くきのあと」:水辺に生える草の根や茎をたとえに、人生や心の動きが跡形もなく消えていく様子を暗示します。
「水が引いた跡をそのまま形にして書き記しておく」
(=過去のことを、ありのままの形で書き残しておく)
- 解釈:過ぎ去る時間や人生の跡をどうにかして形に残そうとする人間の願いを表現しています。★
〈本文〉
ああ、なんと悲しく、なんと痛ましいことだろう。私たちは始まりも終わりもない過去から、無明という迷いの酒に酔わされて、六道の世界を生まれ変わり死に変わりしながらさまよい続けてきました。
あるときは地獄の炎に苦しみ、またあるときは氷のような冷たさに閉じ込められる。そして餓鬼道では飢えと渇きに耐え、何百もの生を過ごしても、食べ物や飲み物の名前さえ聞くことがありませんでした。
また、畜生道では弱肉強食の世界に苦しみ、小さな命は大きな命に飲み込まれ、弱い者は強い者に従わざるを得ません。これを「残害の苦しみ」といいます。そして修羅道では、果てしない争いに巻き込まれる苦しみを受け、人間界では生老病死の苦しみに加え、愛する者との別れや、憎い者との再会、求めても得られない苦しみ、さらに※五蘊が盛んであるがゆえの苦しみを受けています。
★解説★
「五蘊が盛んであるがゆえの苦しみ」(五蘊盛苦)というのは、仏教の教えに基づく深い真理を表しています。「五蘊(ごうん)=五陰(ごおん)」とは、私たちの存在を構成する五つの要素を指し、具体的には以下の通りです:
- 色(しき) - 物質的な身体や外界の物質。
- 受(じゅ) - 感覚や感受(快、不快、中立の感覚)。
- 想(そう) - 表象や概念を思い浮かべる作用。
- 行(ぎょう) - 意志や心の動き(精神活動、業)。
- 識(しき) - 認識や意識そのもの。
これらの五蘊は、私たちの「自己」や「存在」の基盤を構成していますが、同時に私たちが苦しみを生じる根本原因でもあります。仏教では、この「五蘊」が常に変化し無常であることを理解し、それに執着することが苦しみの源と説かれています。
たとえば、「色(身体)」に対する執着では、老いや病気、外見への不満が苦しみを生みます。「受(感覚)」に執着すると、快楽を追求し続け、不快な感覚を避けようとして苦しみます。また、「想(思考)」に執着すれば、過去や未来の不安に縛られます。
これらの五蘊が盛んに働くとき、つまり「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」が生じると、私たちは自己中心的な欲望や恐れの中で苦しみを体験するのです。★★
〈本文〉
天界に生まれることがあっても、そこで※「五衰」と呼ばれる天人特有の苦しみを免れることはありません。
★解説★
「天界は五衰を受ける」というのは、仏教の教えにおける重要な概念であり、たとえ天界(天上界)に生まれても永遠の幸福や安泰はなく、必ず衰えや苦しみを経験するという真理を示しています。
天界とは、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の一つで、天界は六道の中で最も高い世界に位置します。ここに生まれる者は、過去世の善行の功徳によって至福を享受します。天界には多くの階層があり、欲界の天(例:四天王天、忉利天)から色界・無色界の天に至るまで存在します。
天界の住人は、非常に長命で、身体も美しく、快楽や安らぎに満ちた生活を送りますが、それでも仏教の根本真理である「無常」からは逃れられません。
五衰とは?
天界の住人(天人)は、他の世界に比べて寿命が非常に長く、極めて豊かな生活を送りますが、死を迎えるときには次の五つの衰え(五衰)を経験するとされます。この五衰は、天人が自分の寿命が尽き、天界から堕ちていくことを悟る象徴です。
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衣服垢染(えふくこうぜん)
清浄だった衣服が汚れ、輝きを失う。天人は通常、極めて美しい衣服を身にまといますが、それが汚れ始めることで衰えが始まることを悟ります。 -
花萎凋(けないちょう)
頭に飾られている天界の花がしおれてしまう。天人は頭に花の冠をかぶりますが、その花がしぼむことは死が近いことの兆候です。 -
腋下汗流(えきげかんりゅう)
わきの下に汗をかく。天人は通常、体から良い香りを発する存在ですが、汗をかくことは衰えの象徴です。 -
身光隠没(しんこうおんもつ)
身体から放たれる光が消える。天人の身体は輝きを放っていますが、その光が弱まり、やがて消えていきます。 -
不楽本座(ふらくほんざ)
自分が座っている場所を楽しめなくなる。天人は通常、座しているだけで無上の安楽を感じますが、それが失われ、心が落ち着かなくなります。
(感想)「天界は五衰を受く」って天界から六道のうちの人界から下の界に落ちることだと思ってました。もっと深い意味があったのですね。
〈本文〉
このように、私たちは三界の間を車輪のように回り続けています。その中で、親子の間ですら、親が親であり、子が子であることを理解することはありません。また、夫婦として巡り合っても、その出会いの意味を知ることはないのです。
迷いの中にある私たちは、まるで羊の目のようにぼんやりとしか物事を見ず、また狼の目のように暗闇の中で不確かなものしか見ていません。自分を生んでくれた母親がどのような存在であるかもわからず、自分が生まれた意味や、この命が尽きる先に何があるのかも知らないままなのです。
ああ、この世で人間に生まれることはとても難しく、さらに如来の教えに巡り会えることは極めて稀なことです。それはまるで、一つ目の亀が広い海で浮木の小さな穴に偶然首を通すようなものです。それなのに、もし今回の人生で生死の束縛を断ち切ることができず、三界という迷いの世界を脱することができなかったら、それは本当に悲しいことです。本当に悲しいことです。
そこに一人の賢い人が現れ、こう教えてくれました。「あなたの嘆きはまったくその通りです。このように無常の理を理解し、善い心を起こす者は、麒麟の角のように非常に稀です。一方で、この理を理解せず悪い心を起こす者は、牛の毛のように数多くいます。あなたが早く生死を超えて菩提心を起こしたいのなら、私が知る最も優れた教えを伝えましょう。もし志があるなら、あなたのためにそれを説きます。」
すると、その愚かな人が座から立ち上がり、手を合わせて言いました。「私はこれまで俗世の学問に親しみ、風流なものに心を寄せてきましたが、仏教というものについては詳しく知りません。どうか、上人さま、私のためにそれを説いてください。」
そのとき、上人がこう言いました。「あなたは耳を伶倫(鋭い聴力を持つ伝説の人)の耳のようにし、目を離朱(鋭い視力を持つ伝説の人)の目のようにして、心を静かに落ち着けて私の教えを聞きなさい。あなたのために説きましょう。
そもそも、仏教には八万もの教えがありますが、その中でも諸宗の根本であり父母とも言えるものは、戒律に勝るものはありません。ですから、インドでは世親や馬鳴といった偉大な菩薩が戒律を重んじ、中国では慧曠や道宣という高僧がこれを大切にしました。
日本においても、人皇四十五代の聖武天皇の御代に、鑑真和上がこの戒律の宗派と天台宗の二つの教えを日本に伝え、東大寺に戒壇を建立しました。それ以来、今日に至るまで、戒律は長い年月を経てもなお尊ばれ、その価値はますます新しいものとなっています。特に、極楽寺の良観上人は、天皇から民衆に至るまで、生き仏として崇められています。
良観上人の行いを見ると、その評判にふさわしいものでした。彼は飯島の港で六浦の関所で集めた米を使い、全国の道を整備しました。また、七つの街道に木戸(門)を設け、人々から徴収したお金で橋を架けました。その慈悲の心は如来(仏)に等しく、その徳の行いは過去の高僧たちをも超えていました。
もし、あなたが生死の苦しみを超えたいと願うのであれば、五戒や二百五十戒を守り、深い慈悲の心を持って生き物の命を奪わず、良観上人のように道を整え橋を架けなさい。これこそが最も優れた教えです。あなたはこれを実践できますか、それともできませんか?
愚かな者はさらに深く手を合わせて言いました。「よく守り抜きます。私のために詳しく教えてください。そもそも、五戒や二百五十戒というものについて、私はまだ何も知りません。どうか細かく教えてください。」
すると智者が言いました。「お前は本当に愚かだな。五戒や二百五十戒ということは、小さな子どもでも知っている。しかし、それでもお前のために説明しよう。五戒とは次の五つの戒律だ。一つ目は不殺生戒、すなわち生き物を殺してはならないこと。二つ目は不偸盗戒、すなわち盗みをしてはならないこと。三つ目は不妄語戒、すなわち嘘をついてはならないこと。四つ目は不邪淫戒、すなわち不道徳な性行為をしてはならないこと。そして五つ目は不飲酒戒、すなわち酒を飲んではならないことだ。二百五十戒については数が多いので省略する。」
これを聞いた愚かな者は、深く礼拝して敬意を表し、こう言いました。「私は今日からこの教えを深く守り抜きます。」
【あらま、あっという間に小乗教をやると言い出したよ。】
ここで、私の長年の知人である隠居生活をしている一人の居士が私を訪ねてきました。その人は、私が嘆き悲しんでいるのを慰めるために訪れてくれたのです。初めには過去の記憶がぼんやりとして夢のようであることを語り、最後には未来が闇の中で見通せないものであることについて話しました。お互いに心の内を語り合い、気持ちを整理した後、その人が私にこう問いかけました。
「そもそも、人としてこの世にいる以上、誰でも来世のことを考えない者はいないでしょう。あなたはどのような仏法を実践して生死の苦しみから逃れようとしていますか?また、亡くなった人々の後世をどのように弔っているのですか?」
私は答えて言いました。「ある日、一人の上人が来られて、私に五戒と二百五十戒を授けてくださいました。この教えは本当に心の奥底にまで染み渡り、貴いものでした。私は深く良観上人のようになりたいと願い、至らない自分でも、悪い道を整備し、深い川には橋を架けたいと思っているのです。」
すると、その居士が私に示して言いました。「あなたの道心(仏道への志)は尊いように見えるが、実は愚かです。今あなたが話している教えは、浅はかで限界のある小乗仏教の教えです。だからこそ仏は八種の譬えを用い、文殊菩薩も十七種の違いを説いています。たとえば、蛍火と太陽の光のような違い、水晶と瑠璃のような違いを挙げています。こうしたことを考えると、三国(インド、中国、日本)の学者たちも、それぞれにこの教えを批判する方法が異なっています。
次に、行者(修行者)が尊重される理由についてですが、それは人々がその行者を敬うことで教えの価値が高まるわけではありません。だからこそ仏は『法に依って人に依らざれ(教えに従い、人間に振り回されるな)』とおっしゃったのです。私は聞いたことがありますが、昔の律を守る聖者たちの振る舞いは、殺生を戒め、財産を持たない清らかな生き方があったと言います。しかし、現在の律僧の振る舞いを見ると、布や絹、財宝を蓄え、金銭の貸借を日々の仕事にしているのです。これでは教えと行いがすでに矛盾しています。誰がそんなものを信じて従うでしょうか?
さらに、道を整備し橋を架けることについても、それがかえって人々の嘆きとなっています。たとえば、飯島の港では六浦で集めた米を徴収しており、多くの人がこれに苦しんでいます。また、諸国七道の関所では木戸を設けて人々から通行料を取っていますが、これも旅人たちにとっては大きな負担です。これらの問題は、まさに目の前で起こっていることです。あなたはこれを見ていないのですか?」
愚人は顔色を変えて言いました。「あなたの知恵をもって上人を非難し、その教えを否定するとは、まったく理由がありません。それを知って言っているのか、それとも愚かさゆえに言っているのか。なんと恐ろしいことか、なんと恐ろしいことか。」
すると、居士は笑って言いました。「ああ、なんと愚かであることか、なんと愚かであることか。では、あの宗派の誤った考えについて少し述べましょう。そもそも、仏教の教えには大小があり、宗派には権(方便)と実(真実)の区別があります。鹿苑精舎で説かれた小乗の教えは、一時的に人々を導くものに過ぎません。それに対して、霊鷲山で説かれた真実の教えは、その本当の利益をもたらすものなのです。」
愚人は呆然とし、居士に問いかけました。「教えの根拠や実際の証拠が確かにその通りだとわかりました。では、どのような教えを信じて生死を離れ、速やかに成仏することができるのでしょうか?」
居士は答えて言いました。「私は在俗の身(出家していない者)ですが、深く仏道を修行し、幼い頃から多くの優れた師の教えを聞き、また多くの経典を開いて学びました。それらを考えると、私たちのような末法の世に生き、悪業を重ねてきた者にとっては、念仏往生の教えに勝るものはありません。恵心僧都(源信)はこう言っています。『往生して極楽に至るための教えと行いは、濁世末法に生きる我々にとっての指針である』と。そして法然上人は、様々な経典の重要な教えをまとめて、専ら念仏を修めることを広められました。
特に、阿弥陀如来の本願は、すべての仏の教えを超えるほど尊いものです。阿弥陀仏の四十八の願の中で、最初に『三悪趣に堕ちることのない』という願いから、最後に『三法忍(仏の悟りを得る心の境地)を得る』という願いまで、どれも深い慈悲に満ちています。しかし、中でも第十八願が私たちにとって特別に素晴らしいものです。この願いは、十悪や五逆(最も重い罪)を犯した者も拒まず、一念(心を込めた一回の念仏)でも多念(繰り返しの念仏)でも選ばず救済します。
そのため、この念仏の教えは、天皇から庶民に至るまで広く受け入れられており、他の宗派とは違っています。さらに、実際にこの教えによって極楽浄土に往生した人々の数は、いったいどれほど多いことでしょうか。」
その時、愚人が言いました。「本当に、その通りです。小さなものを恥じ、大きなものを慕い、浅いものを捨てて深いものに従うのは、仏教の理(ことわり)だけでなく、世間の道理でもあります。私は早くあの宗派に帰依したいと思います。どうか詳しくその教えをお話しください。特に、あの仏の悲願にある『五逆や十悪をも拒まない』という言葉についてですが、五逆とは何を指し、十悪とはどのようなものですか?」
智者は答えました。「五逆とは、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏の体から血を流し、和合僧を破壊すること、これを五逆と言います。十悪とは、身に三つ、口に四つ、意に三つの悪行を指します。身に三つとは、殺生・盗み・邪淫のこと。口に四つとは、嘘をつくこと(妄語)、無駄な話をすること(綺語)、悪口を言うこと(悪口)、人々を仲たがいさせる話をすること(両舌)。意に三つとは、貪り(貪)、怒り(瞋)、愚かさ(癡)のことです。これらを十悪と言います。」
愚人は言いました。「なるほど、今やっと理解しました。今日からは、阿弥陀仏の他力本願にすべてを託すことにします。」
【今度は念仏に宗旨変えしたね(笑)】
ここで、愚人がまた言いました。
「思いもよらず、大変高名で立派な密教の行者が私の嘆きを訪ねて来てくれました。その人は初めに世間の誤った考えや無駄話の害を説き、最後には顕教と密教の教えについて語り、こう私に尋ねました。『さて、あなたはどのような仏法を修行し、どの経典を読誦しているのですか?』」
私は答えて言いました。「私は、ある居士の教えによって浄土三部経を読誦し、西方極楽の教主(阿弥陀仏)に深く信を置いています。」
行者は言いました。「仏教には二つの種類があります。一つは顕教、もう一つは密教です。顕教の最も深遠な教えでさえ、密教の入り口にすら及びません。あなたが信じている法は釈迦如来が説いた顕教の教えです。しかし、私が信じているのは、大日如来の秘法です。本当に三界の火宅(煩悩に満ちた世界)を恐れ、寂光土(悟りの世界)を望むならば、顕教を捨てて密教に帰依すべきです。」
愚人は驚いて言いました。「私はこれまで、顕教と密教という二つの道があることを知りませんでした。顕教とは何であり、密教とは何なのですか?」
行者は答えました。「私は愚かな者で、賢さを誇るつもりはありません。しかし今、一つ二つの教えを挙げて、あなたの無知を晴らしてみましょう。顕教とは、舎利弗などの弟子たちの請いに応じて、応身如来(釈迦)が説かれた教えのことです。」
この御書は27頁もあるので、なかなか終わりませんよ。まだ全部を現代語訳したことがないので、初体験です。
覚悟してくださいね。間にほかのことも書く予定です。
to be continued......