第六章 迹の文を借りて本地の所証を示す
<内容>
問答7:法華経においては当体蓮華は方便品に、譬喩蓮華は譬喩品、化城喩品に説かれている。
問答8:当体蓮華の文は方便品において諸法実相に約して一念三千を明かした文である。
問答9:当体蓮華の現証は、当世の学者は宝塔品の三身、妙音・観音の三十三・四身等を考えているが、日蓮大聖人は方便品と神力品の結要付属の文をあげる。
<本文>
問う。法華経は、どの品の、どの文に、正しく当体・譬喩の蓮華を説き分けているのか。
答う。もし三周の声聞に約してこれを論ずれば、方便の一品は皆これ当体蓮華を説いている。譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説いている。ただし、方便品にも譬喩蓮華が説かれていないというのではない。また、ほかの品に当体蓮華が説かれていないというのでもない。
問う。もしそうであるなら、正しく当体蓮華を説いた文はどれであるか。
答う。方便品の「諸法実相」の文がそうである。
問う。どうして、この文が当体蓮華の文であると知りうるのか。
答う。天台・妙楽が、諸法実相を引いて、法華経の法体を解釈しているからである。また伝教大師が解釈していうには「問う。法華経は何をもって体としているのか。答う。諸法実相をもって体とするのである」と。この釈で分明である〈当世の学者、この釈を秘して(妙法蓮華の)名を顕さない。しかしながら、この文の名を妙法蓮華という義である〉。
また現証は、宝塔品の(釈迦・多宝・分身の)三身がこの現証である。あるいは涌出品の菩薩、提婆品の竜女の即身成仏がこれである。地涌の菩薩を現証とすることは、(湧出品第十五の)経文に「(世間の法に染まらないのは)蓮華が水に在るようなものである」という故である。これは菩薩が当体蓮華であると説かれているのである。竜女を証拠とするのは、(提婆品の中に)「霊鷲山に詣でて、千葉の蓮華の大きな車輪のような蓮華の葉に坐す」と説かれている故である。
また妙音・観音の三十三・四身がその現証である。これを、妙楽は弘決に解釈して、「法華三昧の不思議自在の業を証得しなかったならば、どうしてよくこの三十三身を現ずることができようか」と説いている。あるいは「世間の相常住なり」と。これらは皆、当世の学者がかんがえた文証である。
しかしながら、日蓮は方便品の十如実相の文と、神力品の「如来の一切の所有の法」等の文とを当体蓮華の正しき証文とするのである。この神力品の文を、天台大師もこれを引いて法華経の五重玄を釈している。故にこの神力品の一文はことさら、正(まさ)しく当体蓮華の証文である。