第十四章 衆生万法の深義を明かす
<本文>
総じて一代の聖教は一人の法なので、我が身の本体をよくよく知るべきである。これを悟るのを仏といい、これに迷うのは衆生である。これは華厳経の文の意である。
妙楽大師の弘決の六に云わく「この身の中にすべてもれなく天地の姿に倣(なら)う(=模倣している)ことを知る。わかることは、頭の丸いのは天にかたどり、足の四角いのは地にかたどり、身の内の空虚であることは即ちこれ虚空をあらわしている。腹の温かなのは春と夏に法(のっ)とり、背の剛(かた)いことは秋冬に法とり、四体は四時に法とり、大節の十二は十二ヶ月に法り、小節の三百六十は三百六十日に法り、鼻の息の出入りは山沢渓谷の中の風に法り、口の息の出入りは虚空の中の風に法り、眼は日月に法り、その開閉は昼夜に法り、髪は星辰(せいしん)に法り、眉は北斗に法り、脈は江河に法り、骨は玉石に法り、皮肉は地土に法り、毛は叢林(そうりん=草木がむらがり生えている林)にのっとり、五臓は天においては五星にのっとり、地においては五岳にのっとり、陰・陽においては五行にのっとり、人の世においては五常にのっとり、内(心)においては五神にのっとり、修行においては五徳にのっとり、罪を治するには五刑にのっとる。謂わく墨(ぼく)・劓(ぎ)・剕(ひ)・宮(きゅう)・大辟(たいへき)である〈この五刑は人を様々に傷つける刑罰で、その数三千の罰がある。これを五刑という〉。天地の主領においては五官にあたる。五官は下の第八の巻に博物志を引いてあるとおりである。いわゆる句芒(こうぼう)等である。天に昇っては五雲といい、変じて五竜となる。心を朱雀とし、腎臓を玄武とし、肝臓を青竜とし、肺を白虎とし、脾臓を勾陳(こうちん)とする」と述べている。
また同じく弘決には「五音(いん)・五明・六芸(りくげい)、皆この(五臓)から起こっている。更にまた当に内を治める法を識るべきで、覚る心が大王となって百重の内にあり、外に出るときはすなわち五官に衛(まも)られる。肺を司馬とし、肝を司徒とし、脾を司空とし、四支を民子とし、左を司命とし、右を司録として、人の命を支配している。また、臍(ほぞ)は太一君等というのであり、天台大師の釈禅波羅蜜次第法門の中に広く(詳しく)その相を明かしている」と述べられている。
人身の本体を委しく調べてみると、以上のようになる。ところが、この金剛不壊の身をもって生滅無常の身であると思う誤った思いは、「譬えば荘周が夢の蝶のようなものである」と釈されているのである。五行とは地水火風空である。五大種とも、五薀(うん)とも、五戒とも、五常とも、五方とも、五智とも、五時ともいうのである。これらはただ一つの物であるが、経々ごとに異説がある。
内典・外典で、その名目が異なるだけである。今経にはこれを開会して一切衆生の心中にある五仏性・五智の如来の種子であると説いている。これが則ち妙法蓮華経の五字である。この五字をもって人身の体を造っているのである。本有常住であり、本覚の如来である。これを方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「ただ仏と仏とのみ、すなわちよく究め尽くしている」と説かれたのである。
この法門は、不退の菩薩も極果の(阿羅漢を得た)二乗も、少しも知らない法門である。ところがを円頓の教えを信ずる凡夫は、初心(初信)よりこれを知ることができるゆえに、即身成仏するのである。金剛不壊の体となるのである。
ここをもって明らかに知るべし。天が崩れるならば、我が身も崩れるであろう。地が裂けば我が身も裂けるであろう。地水火風が滅亡すれば我が身もまた滅亡するであろう。しかるに、この五大種は、過去・現在・未来の三世は移り変わったとしても、五大種はかわることがない。正法と像法と末法との三時が異なったとしても、五大種はこれ一つにして盛衰・転変することはない。
薬草喩品の疏には「法華円教の理は大地のようなものである。円頓の教は空の雨である。また三蔵教・通教・別教の三教は、三草と二木の教えである。その故は、この草木は、円理の大地より生じて円教の空の雨に養われて五乗の草木は栄えるけれども、天地の恩恵によって自身が栄えたことを思い知らないのである、したがって、仏は三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬えて不知恩のものと説かれたのである。不知恩なるが故に、草木という名を得たのである。今、法華経に来て始めて、五乗の草木は、円理の母と円教の父とを知るのである。『一つの大地から生じたものと知るから、母の恩を知り、また、一つの雨によって潤されたものと知るから、父の恩を知ったと言えるのである」と述べられている。以上が薬草喩品の意である。
<講義は割愛します>
#三世諸仏総勘文教相廃立