人として生まれた以上、誰しも死を避けることはできません。今回は「死」をテーマに、遺族への励ましとして書かれた御書をいくつかご紹介します。
今年は阪神・淡路大震災から30年が経ちます。ちょうど先週の金曜日が1月17日であり、テレビでも多くの特集が組まれていましたね。あのわずか数十秒間の地震で、6434人もの尊い命が失われました。天災ではあるものの、一部では「人災」とも言われる側面もあります。このような被害を防ぐために、国全体で防災対策をさらに強化する必要があると感じます。
東日本大震災や熊本地震、さらには昨年元日の能登地方での地震など、大地震は今も私たちの身近な課題です。大地震が起きた後も余震が続き、人々の不安は収まりません。私は経験はありませんが、熊本地震では、余震かと思ったら本震が来るという二重の驚きがあったと聞きました。
鎌倉時代にも大地震があったことが記録に残っています。その一つが「正嘉の大地震」です。これは1257年10月9日頃に発生したとされ、大聖人が35歳のときの出来事です。震源地は相模湾、マグニチュードは7~7.5と推定されています。阪神・淡路大震災の
M7.3と同程度の規模ですね。鎌倉時代には、地震が頻発していたとも言われています。この大地震について『吾妻鏡』には次のような記述があります(現代語訳):
「午後8時頃、大地震が発生。激しい音が鳴り響き、神社仏閣で無事なものは一つもなかった。山々は崩れ、家屋は倒壊し、土塀もすべて壊れ、各地で地面が裂け、水が湧き出した。中下馬橋付近では、地割れから青い炎が燃え上がった。」
御書の中で地震で亡くなった人に関する記述は少ないようですが、病気などで亡くなった方の遺族を励ます手紙は多く残されています。今回はそのような御書をいくつか集めてみました。抜粋が中心となるため、詳しい状況がわからない部分もあるかもしれません。ですが、それぞれの御書については、もしかするとブログにも詳しく書いているかもしれませんので、興味のある方はぜひ探してみてください。
今回は現代語訳だけ載せることにしました。
(総監文抄、全574頁6行目・新728頁)
しっかりと秘めて大切にし、この理(ことわり)を深く体得しなさい。それによって、三世の仏たちの本来の願いにかなうことができ、二聖・二天(梵天と帝釈天)・十羅刹の守護を受けることができるでしょう。そして、何の妨げもなく、最高の悟りの境地である寂光土への往生を果たしなさい。
さらに、その後すぐに九界(迷いの世界)の生死の夢の中に再び戻り、身を十方すべての世界に広げ、心をあらゆる生きとし生ける者の中に入れなさい。そして、内面からは人々を奮い立たせ、外から導き、内と外が一致し調和するようにして、因縁が結ばれて調和するようにしなさい。
こうして、自在な力をもって慈悲を施し、滞りなく広く人々を救い、利益を与えるよう努めなさい。
(御義口伝712頁11行・新990頁)
したがって、依報と正報の成仏が成し遂げられるとき、「下至阿鼻地獄」(最下層の阿鼻地獄に至るまで)の文は、依報が成仏することを説き、提婆達多が天王如来となることは、正報の成仏を説いているのです。依報と正報の両方が、共に妙法(法華経)の力による成仏であると言えます。
さて、私たち日蓮やその弟子たちが亡き人々の魂を弔い訪れるとき、法華経を読誦し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えるならば、その題目の光は無間地獄にまで届き、亡き人々を即身成仏へ導きます。「回向(えこう=功徳を他者に回し向けること)」という言葉は、この行為から起こったのです。
法華経を信じない人々は「無間地獄に堕ちる」とされていますが、親孝行な子が法華経の行者として、題目の光を携え、亡き人を訪れるならば、どうしてこの教えに背くことがあり得るでしょうか。だからこそ、「下至阿鼻地獄」(最下層の地獄に至るまで)の文は、仏がその光を放って、提婆達多を成仏させるためであったと、私は推し量っているのです。
(法蓮抄、全1050頁14行・新1426頁)
法蓮法師は毎朝、口から金色の文字を現し出しました。その文字の数は五百十文字に及びます。一つ一つの文字が変化して太陽のような光輪となり、その光輪がさらに変じて釈迦如来となり、大いなる光を放ちながら大地を突き抜け、地獄や三悪道、無間地獄の城を照らしました。さらに、東西南北や上方に至るまで、非想非非想天(最も高い天界)にさえ光は届き、どんな場所であれ、過去の聖霊(亡き人々の魂)がいるところまでその光が行き渡りました。
その光は、そこで過去の聖霊に語りかけるのです。「私が誰だと思いますか?私はあなたの子息である法蓮が毎朝誦している法華経の自我偈の文字です。この文字は、あなたの目となり、耳となり、足となり、手となるでしょう」と、丁寧に語りかけることでしょう。そのとき、過去の聖霊は、「私の子息である法蓮は、もはや単なる子ではない。私の善知識(正しい道を教える師)である」として、娑婆世界(現世)に向かって手を合わせて拝むことでしょう。
これこそ、真の孝養(親への孝行)というものではないでしょうか。
(四条金吾殿御書、全1112頁9行目・新1514頁)
日蓮は、「この業障を消し尽くし、未来には必ず霊山浄土へ参るであろう」と信じています。そのため、さまざまな大難が雨のように降り注ぎ、雲のように湧き上がってきても、これが法華経のゆえである以上、苦しみを苦しいとは思いません。
このような日蓮を支える弟子や檀那の皆さん、特に今月十二日に亡くなられた妙法聖霊(故人)は、まさに法華経の行者であり、日蓮の檀那でした。そのような方がどうして餓鬼道に堕ちることがありましょうか。間違いなく釈迦仏、多宝仏、そして十方の諸仏の御前にいらっしゃることでしょう。そして仏たちは、「これこそ四条金吾殿の母よ、母よ」と口々に称賛され、共に頭を撫で、喜び褒めたたえてくださるはずです。また、釈迦仏もこう語られるでしょう。「ああ、素晴らしい息子を持ったものだ」と。
法華経には次のように説かれています。
「もし善男子・善女人が妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄らかな心で信じ敬い、疑いを起こさなければ、地獄・餓鬼・畜生の道には堕ちることなく、十方の仏の御前に生まれる。その生まれた先では常にこの経を聞くであろう。もし人間や天界に生まれるなら、最高の喜びを味わい、もし仏の御前に生まれるなら、蓮華の中から生まれるであろう」とあります。この経文に「善女人」とあるのは、妙法聖霊を指していなければ、他の誰を指すのでしょうか。
また、法華経には次のようにも説かれています。
「この経を持つことは難しい。しかし、たとえ少しの間でもこれを持てば、私はすぐに歓喜する。諸仏もまた同様である。このような人こそ、諸仏が称賛される人である」と。
日蓮が法華経を讃嘆することなど、取るに足らないものです。しかし、経文には「諸仏が称賛される人である」とはっきりと説かれています。ああ、なんと心強いことでしょうか! どうか信心を深めて受け取ってください。どうか、信心を深めて大切にしてください。
最後の言葉は:「あらたのもしや、あらたのもしやと、信心をふかくとり給うべし、信心をふかくとり給うべし」でした~。大聖人様は強調される時は繰り返し書かれることが多いですよね。シンプルにくりかえされた方が心に残ることばです。
☆今日はここまで、また書きますね☆