御書大好き!!

沢山の人が御書に親しめるように、現代語訳や講義、感想など書きます。

宝軽法重事 全1474頁 新1948頁

建治2年(ʼ76)5月11日 大聖人が55歳のとき、西山殿に送られたお手紙です。

 

今回の御書は「身軽法重抄」と似ていますが、ちょっとニュアンスが違うようです。七宝で満たした世界を仏などの四聖に供養する功徳よりも、法華経の経文を受け取って守る功徳には及ばないと法華経に説かれているのです。これはつまり、末法今のときなら、御本尊を受けて信心に励むこと以上の功徳はないということですね。

西山殿の純真な信心のおかげで目に見えての功徳も多くあって、このお手紙の最後に「御心ざしふかければ、法もあらわれ候にや」と言われたと思います。

 

〈御書の現代語訳〉

笋(たけのこ)を百本、さらに二十本も後から贈られてありがたく受け取りました。

妙法蓮華経の第七巻には、次のようにあります。
「もし誰かが七宝を使って三千大千世界(宇宙全体)を満たし、それを仏や大菩薩、辟支仏、阿羅漢に供養したとしても、その功徳は、この法華経のわずか四句の偈(詩のような教えの一節)を受け取って守る功徳には及ばない」と。

天台大師の『法華文句』第十巻では、「七宝を四聖(仏、菩薩、阿羅漢、辟支仏)に捧げる功徳よりも、法華経のたった一つの偈を持ち続ける方が優れている」と解説されています。これは、法が聖者たちの師であるからです。法は生み出し(能生)、養い(能養)、完成させ(能成)、そして栄えさせる(能栄)力を持っています。法以上のものはありません。だからこそ、「人の身(存在)は軽く、法は重い」と説かれるのです。

また、妙楽大師の『法華文句記』第十巻では、「父母が必ず四つの方法で子を守るように、法もまた人を守る」と述べています。つまり、発心(信仰の始まり)は法によって生まれ(生)、その信仰が継続されるのも法のおかげであり(養)、最終的に悟りの成果を得ることも法のおかげである(成)。さらに、法は広く世界にその恩恵をもたらします(栄)。これら四つの役割は異なっていても、その根本はすべて法にあるのです。

経典や天台・妙楽の教えの要点はこうです。一切の衆生を供養すること、あるいは阿羅漢を供養すること、さらにはすべての仏に七宝を三千大千世界分も捧げる供養ですら、法華経のたった一偈を受け取り守ることには及ばない、ということです。

経典にはこうあります。「この法華経のたった四句の偈を受け取ることの功徳に勝るものはない」。また、天台大師は「人の身は軽く、法は重い」と言い、妙楽大師も「法が根本である」と述べています。

仏教の九界(衆生)のすべてを仏と比較すれば、一切衆生の功徳は一本の毛のように軽く、仏の功徳は大山のように重いといえます。しかし、仏の功徳ですら梵天(天の神)の薄衣(軽い羽衣)のようなものにすぎず、法華経の一文字が持つ功徳の重みは、大地のように計り知れないのです。「人は軽い」というのは、仏を「人」とみなした場合の話です。「法が重い」というのは、法華経そのものの価値を指します。

法華経以前の諸経や諸論では、仏の功徳を称賛しています。それは仏の行いや力を褒めたものでした。しかし、法華経では経典そのものの功徳を称賛しており、仏を生み育てる父母のような存在とされています。例えば、華厳経大日経のような教えが法華経に劣る理由は、一本の毛と大山、三銖(ごく軽い重量)と大地の違いのようなものです。法華経の最下位の行者でさえ、華厳や真言の最上位の僧侶よりも遥かに勝っています。その差は、帝釈天(天の王)と猿、ライオンと兎の違いのようなものです。

にもかかわらず、民が王を非難すれば、必ず国は滅びます。同様に、他の経典の行者が法華経の行者に勝ると主張すれば、その国も滅び、人々は地獄に堕ちることになるのです。

ただし、敵がいないときには、その争いも虚しいものです。例えば、平将門安倍貞任のような者も、藤原秀郷源頼義のような敵がいなければ、国を治め、平和に暮らしていました。敵がいないと、露は天に昇り、雨は地に降ります。しかし逆風が吹くときには、雨が天に昇り、日が昇ると露が地に落ちるのです。同様に、華厳宗や六宗の教えも、伝教大師が現れる前には力を持っていました。真言宗もまた同じです。しかし、強敵が出現して法華経を強く説くときには、彼らの教えも露が太陽の熱で消えるように滅び去るでしょう。

法華経は、仏の滅後二千二百余年の間、経典の本質を説き尽くして広める人が現れていません。天台大師や伝教大師もその教えを理解していましたが、時機が熟しておらず、人々の心が整っていなかったために、その教えを完全に広めることはできませんでした。日蓮の弟子となる人々は、このことを深く理解するべきです。

一閻浮提(この世界全体)の中で、法華経寿量品の釈迦仏の像を建立する堂塔はまだありません。しかし、いずれ必ず建立されることでしょう。内容が多いため、ここで終わります。

笋(たけのこ)は百二十本。法華経が二千余年を経て現れたことと同じく、布施そのものはささやかでも、その心が深いために功徳が顕れるのです。現在は、農業を奨励する取り組みや大宮造りで、人々が忙しく過ごしています。しかし、御志が深いからこそ法(妙法の功徳)が顕れてきたのでしょう謹んで申し上げます。

 五月十一日    日蓮 花押
 西山殿御返事