御書大好き!!

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報恩抄 スピンオフ⑯ 突っ込みどころ満載の弘法(笑)

 第28章  新248頁 全319頁 

 

まして、上に挙げた徳の数々には不審がある。
 「弘仁九年の春、天下に疫病が流行った」等云々。春といっても九十日ある、何月、何日ぞ(これ不審の一個目)。また「夜変じて日光赫々たり(太陽が光輝いた)」と。このこと第二の大事である。弘仁九年は嵯峨天皇の御宇である。左史・右史の記に載っているのか〈これ三個目の不審〉。たとえ載せていたとしても、信じがたいと言わざるを得ない。成劫二十劫・住劫九劫、以上二十九劫の間に、いまだかつてない天変である。夜中に日輪が出現したとはどういうことか。

また如来一代の聖教にも書かれていない。未来に夜中に太陽が出ることがあるとは、三皇五帝、三墳五典にも載っていない。仏経の通りなら、減劫にこそ二つの太陽、三つの太陽、乃至七つの太陽は出現することはあるけれども、それは昼のことなのである。夜に、太陽が出現すれば、南閻浮提以外の東西北の三方はどうなるのか。

たとえ内外の教典に記せずとも、現に弘仁九年の春、何月、何日、いずれの夜の、いずれの時に日が出たという公家・諸家・叡山等の日記があるなら、少しは信ずることもできようが、次下に「昔、私は、霊鷲山で釈迦の説法の座に列なって、直接その深文を聞きたてまつる」等とある。この文を人に信じさせようとして作りだした大うそではないのか。だとすれば、霊山にして「法華経は戯論、大日経は真実」と仏が説かれたのを、阿難・文殊が誤って妙法蓮華経を真実と書いてしまったというのか、どうなんだ。

取り上げるまでもない婬女や、破戒の法師等が歌を詠んで降らした雨を、三七日(三週間)までも降らせなかった人(弘法)に、このような徳があるはずがないだろうよ〈これ四の不審〉。
 孔雀経音義に云わく「大師、智拳印を結んで南方に向くと、面門にわかに開いて金色の毘盧遮那と成る」等とある。これまたいずれの天皇のときで、年時はいつか。中国は建元を初めとし、日本では大宝を最初として、それ以後、出家・在家の人の記録では、大事なことには必ず年号が記されているが、これはあるのか。これほどの大事に、どうして王も臣も(天皇や臣下の名前も)年号も日時も記されてないのか。

 


 またそのあとに「三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳宗の道雄、天台宗の円澄」等とある。そもそも円澄は寂光大師と呼ばれ、天台宗第二の座主である。その時にどうして第一の座主である義真、根本の伝教大師を招かなかったのか。円澄は天台第二の座主であり、伝教大師の弟子ではあるけれども、また同時に弘法大師の弟子でもある。弟子を招くよりも、三論・法相・華厳の人々よりはも、天台の伝教・義真の二人を招くのが当然ではなかったのか。

しかもこの日記(記録)には「真言・瑜伽の教えや、秘密曼荼羅の道は、この時から建立された」とある。この筆(文)は伝教・義真の御存命中のことかと思われる。弘法は平城天皇の大同二年より弘仁十三年までは、盛んに真言を広めた人である。その時この二人は現にいらっしゃった。また義真は天長十年まで生きておられたので、その時まで弘法の真言は広まらなかったというのだろうか。色々不審がある。

孔雀経の疏は、弘法の弟子の真済(しんぜい)が自ら記したものである。信じがたし。また邪見の者か。公家・諸家・円澄の記録をひいたほうがいいのではないか。また道昌・源仁・道雄の記を尋ねるべきである。
 「面門にわかに開いて金色の毘盧遮那と成る」とある。面門とは口である。口が開いたというのか。眉間が開くと書こうとして、誤って面門と書いたのか。偽りの書をつくったために、このような誤りがあるのか。
 「大師、智拳印を結んで南方に向かうに、面門にわかに開いて金色の毘盧遮那と成る」とある。

ところが、涅槃経の五の巻に「迦葉は、仏に次のように申し上げた。『世尊よ。私は今この四種の人をより所とすることはありません。なぜなら、瞿師羅経の中に、仏が、瞿師羅のためにこう説かれているからです。もし天や魔、梵天界にいる神々が、仏法を破壊しようとして変身して仏の姿となり、三十二相八十種好を具足して荘厳し、円光(身から発する光が)一尋にも及び、顔は円満で、満月が盛んに光り輝いているようであり、眉間の毫相は白きことは純白の雪よりも白く、(四種の人が)左の脇より水を出だし、右の脇より火を出だす(といったことをしても、信じる心を生じてはいけない』と」あります。

また六の巻には「仏、迦葉にこう告げられた。『私が亡くなって後、この魔王が次第に我が正法を破壊することは必然である。阿羅漢の身および仏の色身と姿を変え、魔王はこの自らの煩悩に満ちた身体を、煩悩のない姿に変え、我が正法を壊ろうとするだろう』と」等とある。
 弘法大師法華経華厳経大日経に対して「戯論(言葉だけの空論である」と言っている。しかも仏身を現じたと。このことを涅槃経には「魔、有漏の形をもって仏となって、我が正法をやぶらん」と予言されたのである。

涅槃経の「正法」は法華経である。故に、涅槃経の次の文に「久しくすでに成仏す」と書かれ、また「法華経の中に説いた通りである」とある。

釈迦・多宝・十方の諸仏は、一切経に対して「法華経は真実、大日経等の一切経は真実ではない」と説かれている。弘法大師は仏身を現じて、華厳経大日経に対して「法華経は戯論」と言っている。仏説まことならば、弘法は天魔ではないのか。
 また三鈷のこと、特に不審である。中国の人が日本に来て掘り出したとしても信じがたい。掘り出す前に人をつかわして埋めたのだろうか。ましてや、弘法は日本の人である。弘法にはこのようなうそが数多い。
 これらをもって、弘法が仏意に叶った人であるという証拠とは認められない。

 

〈感想〉

弘法も真言宗の人たちも「チーーーーン!」ですね。

大ウソが見抜けないとだめですね。しかも、夜中に太陽が昇ったとかいうよう坊主、あほ過ぎる。皆何で信じるんやろ。

「はだかの大様」を思い出しました。誰も声をあげなかったら、皆が変だなと思っていても、「ほんまかいな」「ひょっとしたらほんまかも」って思って真実を言い出せない状態。正直な子供だから口に出せた。

大日如来って架空の仏やのに、それを信じさせてしまう新手の詐欺師が弘法か。

世界を7日間(6日?)で神が造ったということを信じてるキリスト教。詐欺師に騙されてるやん。まあ、誰も本気で信じてないでしょけど。信じてたらきっと頭おかしいと思うわ。あ~キリスト教を敵に回しましたかね。対決してもええけどね。(笑)

所詮、キリスト教も外道ですから、内道と言われる仏教には敵いませんよ。生命を説いているのが大聖人の仏法ですから。こっちは最高の生命哲学です。一念三千の法門です。難しいよ。勉強してください。感動するから。

今回は笑ってしまうことが多かったです。