御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 第六 「導師何故(どうしがこ=導師は何が故ぞ)」の事 712頁  新版御書991頁

ここは序品第一において、弥勒菩薩が仏の眉間白毫相について不思議に思い、「文殊師利、導師何が故ぞ、眉間白毫の、大光普く照らしたもう」と、文殊師利菩薩に尋ねたところである。

 

第六 「導師何故(導師は何が故ぞ)」の事

  疏に云わく「良(まこと)に以(おも)んみれば、説法・入定して能く人を導けば、既に『導師』と称す」。(天台の法華文句第三にいわく「まことによくよく考えてみると、仏はあるいは説法し、入定して、よく人を導くので『導師』というのである)
  御義口伝に云わく、この「導師」は、釈尊の御事なり。「説法」とは無量義経、「入定」とは無量義処三昧に入りたもうことなり。
  詮ずるところ、「導師」において二つあり。悪の導師、善の導師これ有るなり。悪の導師とは、法然・弘法・慈覚・智証等なり。善の導師とは、天台・伝教等これなり。末法に入っては、今、日蓮等の類いは、善の導師なり。「説法」とは南無妙法蓮華経、「入定」とは法華受持の決定心に入ることなり(御本尊を受持して大確信に立つこと・不惜身命の決意をすること)。「能く人を導く」の「能」の字、心を留めてこれを案ずべし。涌出品の「唱導之師(唱導の師)」と同じことなり。詮ずるところ、日本国の一切衆生を導かんがために説法する人、これなり云々。