薬草喩品
(註のところ、御書を見て確かめていただくとわかりやすいです)
又諸仏子 専心仏道
ホシイママニスル
三世 題目 一切衆生
常行慈悲 自知作仏
イツモ ミズカラノチヲツクッテホトケ
(又諸の仏子、心を仏道に専らにし、常に慈悲を行じ、自ら作仏すと知る)
この文は、当来の成仏顕然なり。いわゆる南無妙法蓮華経なり。
<通解>
経文の右(上)に註を附されていわく、「常に」とは三世であり、「慈悲」とは題目である。また、「自ら作仏すと知る」とは、一切衆生にわたるのである。諸(もろもろ)の仏子が、心を仏道に専念し、慈悲の題目を唱えきっていくならば、自身と共に一切衆生をも成仏させていくことができることは、三世変わらざる原理である。
さらに、この経文の左(下)に註を附されていわく「心を仏道に専らにし」はさらに深く「心を仏道にほしいままにする」と読むのである。この諸の仏子が仏道修行に励み、随自意の境地を会得することである。「常に」とは三世であるが、さらに深くは過去・現在・未来といっても、この瞬間にしかなく、「いつも」と読み、瞬間瞬間という意味にとるのである。
また、「自ら作仏すと知る」の文も「みずからの智をつくって仏」と読み、瞬間瞬間、仏智を湧現し、仏の当体として振舞うことを意味するのである。
この文全体の御義口伝にいわく、この薬草喩品の文によって、未来、すなわち末法の今日の成仏は明瞭である。すなわち、南無妙法蓮華経と題目を唱えることこそ、末法の成仏の要諦である。
<講義>(今回は頑張って講義をたくさん書き写しました~)
「諸(もろもろ)の仏子」とは、信心した我々のことである。決して僧侶のみが仏子ではなく、題目を唱え、折伏をする者が仏子なのである。仏は親であり、我々は子供である。しかも親子一体であり、絶対に成仏は疑いないことを仏子の二字が表している。朝な夕な自己の一生成仏のため、妙法流布のために戦い、しかもそこに、人生の根幹を置くことである。その戦いも消極的ではなく、積極的な信心に立ち、それぞれの分野で責任を持ち、智慧を働かせ、一切を前進させていくことが大切である。そこで、「専(もっぱ)らにし」を、さらに「ほしいままにする」と読むのであると教示されたものと思う。
「ほしいまま」とは、決して専横な勝手な行動をいうのではなく、随自意の振舞いのことであり、信心に徹し、妙法流布の戦いに徹し、その上に立って、生命力を湧現し、智慧を輝かせ、一切を動かしていくことをいうのである。
依正不二と言えども、正報たる自分が変われば一切が変わってくる。信心で一切を開き、動かしていくことが専心仏道の四文字の真の意義であると思うべきである。
また、「常に」を三世と読み、「いつも」と二重に読むのは、過去、現在、未来の三世といっても、結局この瞬間にしかなく、この瞬間を開いて、三世となるのであるという、仏法の深奥(しんおう)の理を述べんがためにほかならない。この現在の瞬間をどう生きるか、これが本因妙の仏法の精神である。「慈悲を行じ」の慈悲とは、自行化他にわたる題目である。すなわち唱題であり、折伏であり、即学会活動である。
「自ら作仏すと知る」とは成仏とは、他から教えられたり、与えられたりするものではなく、自身の生命それ自体に覚知するものである、との意である。この文の右(上)に「一切衆生」と註を附されたのは、成仏とは、誰か特別の人のみが、この境涯を会得するのではなく、一切衆生自身の生命にある仏界を湧現することであるとの意であり、再往、自ら成仏していくことが、依正不二で一切衆生を成仏させていくことになる、との元意と拝するのである。
さらに、この左に「自らの智をつくって仏」と読むべきことを仰せられている。これは題目を唱え、折伏を行ずる事が、それ自身もう仏智の湧現であり、仏の振舞いとなっているのだ、との意味なのである。
なかんずく「自らの智をつくって」とは、瞬間瞬間、広宣流布のために全力を尽くし、内奥の智慧を湧現しつくしていくことである。もはや、それが仏の当体の確立であり、一切が仏の所作であるとの、もったいなき仰せである。
また、「当来の成仏」とは、釈迦在世より末法をのぞんで当来といったのであり、末法の成仏の意である。さらに、我らの立場よりすれば、当来とは大聖人ご在世の時より、化儀の広宣流布の時代をのぞんで当来と仰せられたと拝すべきである。
したがって、この文の実践こそ、末法今時の成仏の要諦であり、これ以外に成仏はないと主張するものである。