御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

治病大小権実違目 (治病抄) 全995頁 新1329頁

弘安元年(ʼ78)6月26日 大聖人が57歳のときに富木常忍に与えられたお手紙です。

私が参考にしている「御書を読む」の本では弘安5年とも、弘安2年とも弘安元年とも書かれておりましたが、新版御書では弘安元年となっています。弘安元年6月26日に四条金吾に与えられた二病抄と同日に書かれたものと思われます。

病には身の病と心の病があることが書かれています。身の病の方がまだ治しやすいが、心の病は治しにくいとのことです。本文も新版御書では少し違っているようです。

以前は本文そのまま載せていましたが、今回は現代文に変えて載せますね。

(本文が講義の第二章のところから始まっています。新版御書になって変わったようです。理由は最後に説明を記しておきました。)

 

 富木入道殿御返事    日蓮

 御消息には「疫病がいよいよ盛んに流行っている」等とありました。

 さて、人には二つの病あります。一には身の病。いわゆる、地大百一、水大百一、火大百一、風大百一、以上四百四病です。この病は、たとい仏でなくても、これを治すことができます。いわゆる治水・流水・耆婆・扁鵲等が薬で、これを治すことによって快癒しないということはない。二には心の病で、いわゆる三毒乃至八万四千の病である。この病は二天三仙・六師等も治し難い。まして、神農・黄帝等の薬ではとうてい治すことは難しい。

 また心の病は、重々に浅深・勝劣が分かれている。六道の凡夫の三毒・八万四千の心の病は、小仏・小乗の阿含経、俱舎・成実・律宗の論師・人師がちがこれを治そうとしても愈やすことはできない。ただし、この小乗の者等、小乗を本として、あるいは大乗を背き、あるいは心には背かざれども大乗の国に肩を並べようとする、その国・その人に諸病が起こる。小乗等をもってこれを治すれば、諸病は増すとも治されることはない。諸大乗経の行者をもってこれを治療すれば、則ち平愈する。

また、華厳経・深密経・般若経大日経等の権大乗の人々が、各々「劣れるを勝ると謂(い)う見(見解)(劣謂勝見)」を起こして、我が宗はあるいは「法華経と等しい」とか、あるいは「勝れている」などという人が多く出てきて、国主等がこれを用いたら、これによって、三毒・八万四千の病が起こるのである。自らの依経をもって治そうとすれば、かえっていよいよ倍増する。たとえ彼らが法華経をもって治療を行っても功力はない。経は勝れてはいるけれども、行者が、僻見の者だからである。

(以上第二章)

 法華経にまた二経ある。いわゆる迹門と本門である。本迹の相違は水火・天地の違目である。例えば、爾前と法華経との違いよりもなお大きな相違がある。爾前と迹門とは、相違があるといっても似ているところもあるのである。

釈迦の説かれた教えは八教ある。その中で爾前の円と迹門の円とは似ている。爾前の仏と迹門の仏は、劣応・勝応・報身・法身異なれども、始成正覚の立場であるということは同じなのである。

今、本門と迹門とは、教主すでに久遠実成・始成正覚の違いがあり、百歳のおきなと一歳の幼子のようなものである。仏の弟子また水火である。所住の国土の先後もいうまでもない。それなのに、本迹を混合するのは、水火を弁(わきま)えないものである。
 ゆえに、仏は明確に説き分けられたけれども、仏の御入滅より今にいたる二千余年が間、三国ならびに一閻浮提の内に明らかに分けた人はいないのである。ただ漢土(中国)の天台、日本の伝教、この二人だけがほぼ分けられたけれども、本門と迹門との大事な法門がある中で、法華の円戒はいまだ明らかにされなかった。結局、天台と伝教は内心では御存知だったけれども、一には時が来ていないのと、二には機根がないのと、三には釈尊から譲られなかったという理由で明かされなかったのである。今、末法に入って、地涌の菩薩が出現して弘通するべき時になっている。

今、末法に入って本門の法華経を弘める時には、小乗・権大乗・迹門の人々、たとえ科(とが)がなくても、彼々の法では功力はあるはずがない。

譬えば、春の薬は秋薬とはならない。たとえなったとしても、春夏に服したときのように効能があるとはならない。(ここの詳細は講義352頁参照)

まして、彼の小乗・権大乗・法華経の迹門の人々は、あるいは大小・権実に迷える上、上代の国主、彼々の経々に付いて寺を立て田畠も寄進したがために、彼の法を(真実でないと)下せば何とも申し開きがつかなくなるうえ、自分がたのむ国主を失ってしまうために、大瞋恚(だいしんに)を起こして、あるいは実経である法華経を謗じ、あるいは法華経の行者をあだむのである。

国主もまた、一つには多人数につき、あるいは上代(昔)の国主が崇重してきた法(教え)を改めるのが難しいため、あるいは自身の愚癡の故、あるいは法華経の行者を賤しむ心から、彼の訴人等の言葉を受け入れて法華経の行者を迫害している。このため実教の守護神の梵釈・日月・四天等その国を罰する故に、先代未聞の三災七難起こるのである。いわゆる、去年や今年、また正嘉等の疫病等である。(以上第三章)
(全997頁) 疑っていう、汝が言うように、この国が法華経の行者をあだむ故に、善神がこの国を治罰する等ならば、謗法の人々の疫病はもっともである。どうして、汝が弟子等まで、病にかかり死んだりするのか。
 答えて云わく、汝が疑いはもっともである。ただし、一方を知って一方を知らないものである。善と悪とは無始よりの左右の法なり。権教や諸宗の心は、善悪は等覚の菩薩までに限られている。もしそうであるならば、等覚までは互いに失(とが)があるはずである。法華宗の心は一念三千の法門であって、性悪・性善は、妙覚の位にも備わっている。元品の法性は梵天・帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れる。善神は悪人をあだむ。悪鬼は善人をあだむ。末法に入っているから、おのずから悪鬼は国中に充満している。瓦石や草木が並びはびこっているようなものである。(悪世であるから)善鬼は天下に少ない。聖人・賢人がまれだからである。この疫病は、念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも日蓮が方にこそ多く病み死ぬ人が出るはずである。ところがどういうわけであろうか。彼らよりも少なく病み、少なく死んでいるのは、不思議に思っている。一門の人が少ないせいか、または御信心が強盛なるためであろうか。

(以上第四章)

問うていう、日本国に、この疫病が、先代にあったか。
答えていう、日本国は神武天皇よりは十代にあたる崇神天皇の御代に疫病が起こって、日本国中、病で死ぬ人は半分以上であった。天皇が始めて天照太神等の神を諸国で崇めたところ、疫病がおさまった。故に崇神天皇といわれるのである。

これは仏法が渡来する以前のことである。人王第三十代ならびに三十一・三十二の三代の国主(天皇)、ならびに臣下等、天然痘と疫病に御崩されたり亡くなられたりした。その時は神に祈ったけれども叶わなかったのである。
 去ぬる人王第三十代欽明天皇の御宇(治世)に、百済国より経・論・僧等が渡ってくるだけでなく、金銅の教主釈尊像が渡ってきた。蘇我宿禰等は、「崇めるべきだ」といった。物部大連等の諸臣ならびに万民等は、一同に「この仏は崇めてはならない。もし崇めるならば、必ず我が国の神が、瞋りをなして、国が亡びるだろう」といった。王はどちらにするか決めかねているうちに、三災七難が、先代に超えて起こって、万民皆疫病によって死んだ。

大連等これに機会をとらえて天皇に廃仏を奏上したので、僧尼等をはずかしめたうえ、金銅の釈迦仏をすみをおこして焼いてしまった。寺また焼かれてしまった。その時に大連は疫病で死んだ。王も亡くなられ、仏をあがめた蘇我宿禰も病んだ。
 大連が子・守屋大臣が「この仏をあがむる故に、三代の国主すでに疫病で亡くなった。我が父も疫病で死んだ。まさに知るべし、仏をあがむる聖徳太子・馬子等はおやのかたき、公の御かたきである」といったので、穴部王子・宅部王子等ならびに諸臣已下数千人が一団となって、仏と堂等を焼き払っただけでなく、合戦まで起こった。結果、守屋討たれてしまった。

仏法渡って三十五年が間、年々に三災七難・疫病が起こったが、守屋が、馬子に討たれただけでなく、神もすでに仏に負けてしまったので、災難はたちまちにやんでしまった。

その後の代々の三災七難等は、大体は仏法の内の乱れより起こった。しかれども、あるいは一人二人、あるいは一国二国、あるいは一類二類、あるいは一処二処のことだから、その原因は神のたたりも有り、謗法の故もあり、民のなげきよりも起こる。

(以上第五章)


 しかるに、この三十余年の三災七難等は、一向に他事を雑えず、日本一同に日蓮をあだんで、国々・郡々・郷々・村々・人ごとに、上一人より下万民にいたるまで、前代未聞の大瞋恚を起こしているからである。見思惑を断じていない凡夫が元品の無明を起こすことは、これが始めてである。(このような凡夫が)神と仏と法華経に祈ると、いよいよ(三災・七難は)増長するのである。ただし、法華経の本門を法華経の行者につけて除く。
 結局は、勝負を決する以外、この災難を止めることは難しい。
 止観の十境十乗の観法は、天台大師が説かれて後は、行ずる人はいない。妙楽大師・伝教大師の御時には少し行じられたが、敵人(反対者が)弱かったのでとりたてるほどのことはなかった。止観に三障四魔とあるのは、権経を行ずる人に起こる障りではない。今、日蓮が時に、まさに起こっているのである。また天台・伝教等の時の三障四魔よりも、いまひとしおまさっている。

一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事である。天台・伝教等の御時には理である。今は事である。観念すでに勝る故に、大難もまた色まさる(盛んなのである)。彼は迹門の一念三千、これは本門の一念三千である。(この相違は)天と地ほどのはるかな違いであると、御臨終の時は心えられるべきである。恐々謹言。
  六月二十六日    日蓮 花押


  さえもん殿(四条金吾)にことづけられた御かたびら、確かにいただきました。
  今度の人々のそれぞれの御さいども(供養の品々)、左衛門尉殿の書き付けにあったようにいただきましたとお伝えいただきたい。
  太田入道殿の方々の品、富木殿の書き付けのようにいただきました。この法門の一端は左衛門尉殿に書いて送ってあるので。借用してご覧になってください。

 

※ [日蓮 花押]のあとのところ、つまり追伸にあたるところが、以前の御書では一番最初に載せられていました。おそらく最後のところの紙片が足りなくて一番前のところに書かれたのではないでしょうか。さえもん殿とあるのは四条金吾のことです。新版御書では、そういう意味で最後に書かれたと思われます。