御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

報恩抄 スピンオフ⑬ 第二十四章

そういえば、善無畏三蔵は中天(中央インド)の国主であった。へ~初耳)位を捨てて他国に行き、殊勝・招提の二人に会って法華経を授けられ、百千の石の塔を立てたので、法華経の行者そのものに見えた。しかし、大日経を学んでからは、法華経大日経に劣ると思ったのだろうか、始めはあまりその主張もしていなかったけれど、中国に渡って玄宗皇帝の師となった。天台宗に嫉妬する心が起きたためだろうか、たちまちに頓死して、二人の獄卒に鉄の縄を七つつけられ閻魔王の宮殿にいたった。命いまだ尽きていないと言って帰されたのだが、法華経謗法のせいやと思ったのか、真言の観念・印・真言等を投げ捨てて、法華経の「今この三界は」の文を唱えると、縄も切れ、現世に帰された。また雨が降るよう祈祷を命じられ、たちまちに雨は降ったけれども、大風が吹いて国を破壊した。結局、死んだときには、弟子達が集まって臨終の見事な様子をほめたけれども、実際は無間大城に堕ちていたのだ。

(おっ質問者登場!)
 問う、どうやってそのことがわかったのだ。
 答える。彼の伝記を見ると、こう書かれている。「今善無畏の遺体を観ると、漸く縮小し、黒い皮膚がわずかに見え、骨はむき出しになっている。」

彼の弟子等は死後に地獄の相が顕れたのを知らずに、ほめて師の徳をあげたと思っているが、書き顕した文字は善無畏の過ちを記している。「死んでしまうと、体は次第に縮まり小さくなって、皮はくろく、骨はむき出しになる。」(というのが正に地獄の相の証明である。うんうん)

人が死して後、色が黒いのは地獄の業と定められていることは、仏陀の金言じゃないか。善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ。(何が悪かったんやろ

幼少にして王位を捨てた。これは最高の求道心である。インド五十余箇国を修行した。慈悲が深いあまりに中国に渡った。インド・中国・日本、世界中で真言行者が真言を伝え、金剛鈴を振って修行するのは、この人の徳(功績)ではないのか。どうして地獄に堕ちたんだと、死後のことを気にかける人々は探求する必要がある。
 また金剛智三蔵は南インドの大王の太子であった。金剛頂経を中国に伝え、その徳は、善無畏に匹敵する。また互いに相手の師となった。ところが、金剛智三蔵が、皇帝の勅宣によって、雨を降らす祈りをしたところ、七日の内に雨が降った。皇帝は大いにお悦びになったが、たちまち大風が吹いてきた。王や臣下たちはがっかりした。使いをやって追放しようとしたが、あれこれ言って中国に留まっていたのである。結句はお姫様が亡くなられたときに、祈るよう命を受けて、身代わりに宮中にいた七歳の少女を二人、積み重ねた薪の中に入れて焼き殺していまったことこそ、残酷なことであったと思えてならない。それでも、お姫様も生き返られなかった。(当たり前やん)


 不空三蔵は金剛智にインドからお供をしてきた。これらのことを不審と思ったのであろうか、畏と智が入滅した後、インドに帰って竜智に会い、真言を習いなおし、天台宗に帰伏していたが、心だけは帰伏していたものの、身まで帰伏することはなかった。雨を降らす祈祷を命じられ引き受けたところ、三日経ったところで雨が降った。皇帝はお喜びになって、自ら布施を与えられた。だが、しばらくすると、大風が吹きつけて、皇帝の住まいを吹きやぶり、朝廷にお仕えする貴族たちの屋敷は一つも残っているとは思えないほどであった。皇帝は大いに驚いて「風をとどめよ」という宣旨を下した。風はしばらくしてはまた吹き、またしばらくしては吹くといった様子で、数日の間やむことがなかった。結局使いを遣わして、不空を追放してはじめて風が止んだ。
 この三人の悪風は、中国・日本の一切の真言師に共通の大風である。きっとそういうことであるのだろう、文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂の加賀法印という東寺第一の智慧ある者が、雨を降らす祈祷をしたことで吹いた逆風である。善無畏・金剛智・不空の悪法を、少しの違いもなく伝えているということか。心にくし、心にくし。(心憎いことではないか。)