御書大好き!!

沢山の人が御書に親しめるように、現代語訳や講義、感想など書きます。

弥三郎殿御書 現代語訳のみです。  全1449頁 新2082頁

これは、私のような無知な俗人の考えではありますが、以前お聞きした話がとても尊いものに感じられたため、お伝えしたいと思います。それは、法華経の第二巻に記されている「今この三界は」という文に基づくものです。

この文の意味は、現在の日本国は釈迦仏の領地である、ということです。天照大御神八幡大菩薩神武天皇をはじめとするすべての神々や国主、そして国民までも、釈迦仏の支配のもとにあるという考えです。そのうえ、この釈迦仏は私たち衆生に対して、三つの重要な恩をお持ちの仏であります。一つ目は国主としての恩、二つ目は師匠としての恩、そして三つ目は父としての恩です。この三つの徳を兼ね備えている仏は、十方の仏の中でも釈迦仏だけなのです。

したがって、今の日本のすべての人々が、たとえ釈迦仏に対して心を込めてお仕えしたとしても、もし他の仏を釈迦仏と同じように扱ったり、並べて敬ったりするならば、それは大きな間違いになります。たとえるならば、自分の主君、それも賢明な王をそっちのけにして、他国の王を崇め、日本に住んでいながら中国や高麗の王を敬い、自国の王を軽んじるようなものです。このようなことをしたならば、日本の天皇がこれを良しとするでしょうか? いや、そんなことは決してありません。

ましてや、日本の僧たちは皆、釈迦如来の弟子として頭を剃り、僧衣をまとっているのです。彼らは阿弥陀仏の弟子ではありません。それなのに、釈迦堂や法華堂、釈迦仏の画像や木像、法華経の一部すら持っていない僧たちが、三つの徳を完全に備えた釈迦仏を顧みず、徳が一つもない阿弥陀仏を国中で崇めています。村や町、家ごとに阿弥陀仏の像を人の数よりも多く並べ、阿弥陀仏の名号を一心に唱え、一日に六万回や八万回も称えているのです。

日本国の人々が阿弥陀仏を崇め、名号を唱えている姿は、一見すると、非常に敬虔で立派なことのように思えます。しかし、法華経の教えに照らしてみれば、こうした行為はかえって大きな罪を積むことになります。それは、日々十悪を犯すような悪人よりも、むしろ善人である分だけ罪が重いのです。

悪人は、どの仏にも寄り付かないため、考えを改める余地があります。もし善人になれば、法華経に基づいた行いをする可能性もあるでしょう。しかし、日本の人々は阿弥陀仏を釈迦仏よりも、念仏を法華経よりも重んじるため、そう簡単には心を改めることができません。このような人々は善人に見えて実は悪人であり、その中でも一際罪深い者たちです。すなわち大闡提(最も罪深い者)にあたります。釈迦仏は、このような人々について、法華経の第二巻で「その者は死後、必ず阿鼻地獄に堕ちる」と断言されています。

したがって、今の日本の僧たちは、提婆達多や瞿伽梨尊者をも超える大悪人です。また、在家の人々はこうした僧を崇めて供養しているため、この国は目の前で無間地獄に変わりつつあります。その結果、人々は現世で大飢饉や疫病という、これまでにない大きな苦しみに直面し、さらには他国から攻められるでしょう。これはすべて、梵天帝釈天・日月天などの神々の計らいによるものです。

こうしたことを、この日本国で知る者はただ日蓮一人だけです。しかし、最初はそれを言うべきか、それとも言わずにいるべきか、大いに迷いました。しかし、「そうは言っても、どうするべきだろうか。一切衆生の父母である私が、仏の教えに背くわけにはいかない。たとえ自分がどうなろうとも、真実を伝えるべきだ」と決意し、ついに口にしたのでした。

その結果、この二十年以上の間、住む場所を追われ、弟子たちは命を奪われ、私自身も傷を負い、二度も流罪に処されました。最後には、首をはねられるところまで追い詰められたのです。これはすべて、日本国の人々が将来、非常に大きな苦しみに見舞われることを予見し、それを悲しんだからこそでした。

ですから、心ある人々は「これは私たちのためなのだ」と思ってくださるべきです。もし恩を知り、心ある人であれば、二つの杖に当たるうち一つを引き受けてくれるようなものです。たとえそれが難しいとしても、返って怨みを抱くようなことは理解できません。また、在家の人々が、十分に真意を聞き取らないまま私を追放したり、弟子たちに怨みを抱いたりするのも、不思議で仕方ありません。たとえ知らなかったとしても、もし誤って実の親を敵と思い違え、罵り、あるいは傷つけて殺してしまったならば、その罪をどうして逃れられるでしょうか。

多くの人々は、私の真意を知らず、日蓮が悪人であるかのように思っているのです。たとえるならば、嫉妬深い女性が目を怒らせて隣人を睨みつけるとき、自分の顔つきがどれほど醜く見えるかには気づかず、返って隣人の目が恐ろしいと思うようなものです。

これらのことが起こるのは、ひとえに国主が真実を尋ねてくださらないからです。なぜ国主が尋ねないのかというと、日本国の人々が罪をあまりにも多く積んでおり、今生では他国から攻められ、来世では無間地獄に堕ちるという悪業が既に定まっているからだと、経文にもはっきり記されています。そのため私は、それを信じております。

このことについて、たとえ私のような者を追放し、脅し、罰し続けたとしても、決して最後にはただでは済むことはありません。このお心を、たとえ天照大御神八幡大菩薩であっても、変えることはできないでしょう。ましてや普通の人々にはなおさら不可能です。ですから、度重なる大事にも恐れる心を持たず、ますます強い決意を持たれているとお聞きし、そのようにお伝えするのがよろしいかと思います。

さて、その法師に対して意見を述べる際は、こう問い返してください。「さて、私が述べたことは間違いですか?」と。そして、「釈迦仏が私たちの親であり、師であり、主であると説かれた文は法華経にありますか?」と尋ね、「あります」と答えた場合には、「では、阿弥陀仏があなたの親であり、師であり、主であると説かれた経文はありますか?」と責めてみてください。その法師が「ありません」と答えるのか、それとも「あります」と答えるのか、注目してください。

もし「そのような経文があります」と答えた場合には、「それでは、あなたの父親は二人いるのですか?」と追及してください。また、「ありません」と答えた場合には、「それでは、あなたは自分の親を捨てて、なぜ他人を崇めるのですか?」と問い詰めてください。

さらに、法華経が他の経典とは異なる特別な教えである理由を説明するため、「四十余年」などの文を引用してください。「即往安楽」の文について言及された場合には、「さて、この文にまず詰まることは認めますか?」と問い詰め、それに同意する場合にはさらに続けて意見を述べてください。

決して、土地や財産を惜しんだり、妻子のことを気にかけたり、人を頼りにして恐れを抱いたりしてはいけません。ただひたすら決意を固めるべきです。今年の世の中の出来事を自分の鏡としてください。多くの人が亡くなる中で、今まであなたが生きてこられたのは、この使命に出会うためだったのです。この時こそ、宇治川を渡った場所であり、勢多を渡った場所なのです。名を挙げるか、名を落とすかの分かれ目です。

人間として生まれることは難しく、法華経を信じることはさらに難しいものです。このことを今こそ実感すべきです。そして、「釈迦、多宝、十方の仏たちが集まって私に宿り、私を助けてくださるように」と心から念じてください。

もし地頭のもとに呼ばれることがあれば、まずはこの趣旨をよく説明してください。恐れ慎んで申し上げます。

 建治三年(1277年)丁丑八月四日
 日蓮 花押

弥三郎殿へのご返事


ちょっと長めですけど、全部載せました。御書本文そのままでは難しいですが、現代語訳だけ読むとわかりやすいと思います。解説はスピンオフで書きますね。