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ところが、日本国では、比叡山のみ伝教大師の時に、法華経の行者がいらっしゃったことになる。義真・円澄は第一代・第二代の座主である。第一の義真だけは伝教大師に似ていたが、第二の円澄は、半分は伝教の御弟子、半分は弘 法の弟子である。第三の慈覚大師は、始めは伝教大師の弟子に似ていた。御年四十歳で中国に渡ってからは、名は伝教の御弟子で、延暦寺を継がれたけれども、法門は全く弟子ではなかった。けれども、円頓の戒だけは弟子のようであった。コウモリのようなものである。鳥でもなく、ねずみでもない。フクロウ、(父を食らう)破鏡獣のようなものである。法華経の父を食らい、法華経受持の母を噛むものである。太陽を射たと夢に見たのは、このことである。それゆえ、死去の後は墓がないままなのである。
智証の門家(門流)の園城寺と、慈覚の門家の比叡山とは、修羅が帝釈と戦い、悪竜が金翅鳥(こんじちょう)と戦うように、合戦ひまなしである(不断に争っている)。
一方が園城寺を焼けば、他方が比叡山を焼く。智証大師の本尊の弥勒菩薩も焼けてしまった。慈覚大師の本尊や大講堂も焼けてしまった。現身に無間地獄を蒙った。ただ伝教大師の建てた根本中堂だけが残っている。
弘法大師もまた跡なし(残した寺がない)。弘法大師には「東大寺の受戒を受けない者については、東寺の長者にしてはならない」などと、注意事項を述べた文書がある。しかし、寛平法王(宇多天皇)は、仁和寺を建立して、東寺の法師をそこに移して、「我が寺には比叡山の円頓戒を持たない者を住まわせてはならない」との宣旨は明白である。それゆえ、今の東寺の法師は、鑑真の弟子でもなく、弘法の弟子でもない。戒については伝教の弟子である。また一方で伝教の弟子でもない。伝教の法華経を否定しているからである。
弘法は承和二年(835年)三月二十一日に死去したので、公家より遺体を葬られた。その後、人をたぶらかす弟子等が集まって、「弘法大師は亡くなられたのではなく禅定に入られた」と言った。あるいは「禅定に入っている弘法大師の髪を剃って差し上げます」といい、あるいは「三鈷を中国から投げられた」といい、あるいは「太陽が、夜中に出でた」といい、あるいは「現身(生きながらにして)に大日如来となり給う」といい、あるいは「伝教大師に十八道を教えてやったのだ」と言って、師の徳をあげて智慧にかえ、我が師の邪義をたすけて王臣をたぼらかした。
また高野山に本寺・伝法院といいし二つの寺がある。本寺は弘法の建てた大塔で、大日如来がいる。伝法院というのは正覚房が立てた金剛界の大日である。この本末の二寺は、昼夜に合戦している。例えば比叡山と園城寺のようである。
うそが積もって日本に二つの禍いの出現したのであろうか。糞を集めて栴檀としても、焼く時はただ糞のにおいである。大うそを集めて仏と自称しても、ただ無間大城に堕ちるだけである。インドの尼犍外道の塔は、数年の間は人々に利生が沢山あったけれども、馬鳴菩薩の礼拝を受けてたちまちに崩れてしまった。鬼弁婆羅門のとばりは長年の間人をたぶらかしたけれども、馬鳴菩薩に責められて破れてしまった。拘留(くる)外道は石となって八百年経たところで、陳那(じんな)菩薩に責められて水となった。道士は中国の人々をたぼらかすこと数百年、迦葉摩騰・竺法蘭に責められて道教の経典も焼けてしまった。秦の趙高が国を奪い取り、王莽(おうもう)が帝位を奪ったように、真言宗は法華経の位を奪って、大日経の所領としている。法の王である法華経がすでに国から消え失せてしまって、人の王である天皇がどうして安穏でいられるだろうか。