御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

上野殿母御前御返事 1583頁 新版/1926頁 60歳御作

講義録では別名を「所労書」となっており、新版御書では「大聖人の御病の事」となっております。

最後のところは、大聖人も死期が迫っていることを伝えながら、もし自分が尼御前より先に亡くなったならば、故五郎殿にお会いして母の嘆きを伝えましょうと言われています。息子に先立たれた母親への励ましの言葉に胸に響きます。

 

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上野殿母御前御返事(大聖人の御病の事)

 弘安4年(ʼ81)12月8日 60歳 上野尼

 進上 上野殿母尼御前    日蓮

 乃米(玄米)一だ(一駄)、聖人(すみざけ=清酒)一つつ(筒)二十ひさげか、かんこう(かっ香=しそ科の多年草・煎じて胃薬・頭痛薬などに使う)一紙袋。送っていただきました。
 このところの様子は、前々から申しあげているとおりです。さては、去ぬる文永十一年六月十七日、この山に入り候いて、今年十二月八日にいたるまで、この山、出ずること一歩もありません。ただし、八年が間、やせる病気と申し、としと申し、としどしに身も心も弱くなってきましたが、今年は春よりこのやまいおこって、秋すぎ冬にいたるまで、日々におとろえ夜々に重くなりましたが、この十余日はすでに食もほとんどできないところに、ゆきはかさなり、寒気は攻めてきております。身のひゆること石のごとし。胸のつめたきこと氷のごとし。
 しかるに、このさけあたたかにさしわかして、かんこうをはたと食い切って、一度飲むと、火を胸に焚いたようになりました。湯に入るににたり。あせ(汗)にあか(垢)洗われ、しずくで足をすすぎました。この御志はいかんがせんと、うれしくおもい候ところに、両眼にひとつの涙をうかべました。

 まことや、まことや、去年の九月五日、故五郎殿が亡くなられてからは、その後どうなされたかと胸うちさわぎて、ゆびをおり数えれば、すでに二箇年十六か月四百余日がすぎてしまいました。それには母なれば何かたよりがあったでしょう。どうしてきかせてくれないのでしょう。
 ふりし雪は消えてもまた降る。ちりし花もまた咲きました。(人の世の)無常ばかり、またこの世にかえりきこえないのでしょうか。あらうらめし、あらうらめし。余所にても、「よきかんざ(若者)かな、よきかんざ(若者)かな。玉のようなる男かな、男かな。どれほど、おやのうれしくおぼすらん」とみていたのに、満月に雲のかかれるが、晴れずに山へ入り、さかんなる花のあえなく風に散ってしまったようだと、情けなく思っております。
 日蓮は所ろう(病気)のゆえに人々の御文の御返事も書かないでおりましたが、このことはあまりになげかわしいことでしたので、ふでをとりました。これも(日蓮も)、多分長くはこのよにいないでしょう。必ず、五郎殿に行き会うであろうと思っております。母よりさきにお会いしたならば、母のなげきを申しつたえましょう。ほかの事はまた申しあげます。恐々謹言。
  十二月八日    日蓮 花押
 上野殿母御前御返事