第五 「作師子吼(師子吼を作す)」の事
御義口伝に云わく、「師子吼」とは、仏の説なり。説法とは法華、別しては南無妙法蓮華経なり。
「師」とは師匠授(さず)くるところの妙法、「子」とは弟子受くるところの妙法、「吼」とは師弟共に唱うるところの音声なり。「作」とは、「おこす」と読むなり。末法にして南無妙法蓮華経を作すなり。
<感想>
「作」と書いておこすと読むと言われているのは、信心は受動ではなく能動であり、自らやると決めて戦うことであるからです。折伏に戦うことです。
戸田先生は「広宣流布は一人の青年が命を捨てれば必ずできる」と言われたことがあり、「青年よ、一人立て」と呼びかけられた。広布に命をかけられた三代会長のあとを継ぎ、私たちも命がけで広宣流布をめざして戦おう。
第六 「如法修行(法のごとく修行す)」の事
御義口伝に云わく、「如法修行」の人とは、天台・妙楽・伝教等なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、「如法修行」なり云々。
<講義より>
法の如く修行するといっても、その法が低級であったり、誤れるものであったり、不合理なものであれば、それを実践した時には、ゆがんだ人間をつくり、不幸になるだけである。最高の法である法華経を実践してきたのは天台・妙楽・伝教等であり、末法で今、南無妙法蓮華経を唱え法の如く実践しているのは日蓮門下、創価学会、SGIメンバーである、ということです。
第七 「有諸無智人(諸の無智の人有り)」の事
(勧持品の中の俗衆増上慢を明かす文についての御義口伝です。)
御義口伝に云わく、一文不通の大俗なり。悪口・罵詈等、分明なり。日本国の俗を、「諸」と云うなり。
<語句>
一文不通の大衆:一文不通とは経論の一文にも通じていない無知なことをさし、大衆とはきわめて卑俗なことをいう。無知な俗人のこと。俗衆増上慢のこと。
<講義より>
俗衆増上慢は信心すると同時に出てくるものである。普段は何でもなく、心よく交わってる友人、家庭等の人が、信心の事になると決まって反対をするものだ。御金言のいかに適中するかを驚くほど体験するものである。