最近、病気の方にどの御書で励ますのがよいかを考えており、昔の指導要文集から「病気」に関わる御書を集めてみました。御書全集から引用しており、該当する頁と行数も記載しています。また、引用部分には現代語訳を青字で添えていますので、わかりやすく読み進められると思います。
あったほうがいいと思ったところは、要文集より御書を長めに引用しています。
この資料は、病気の方を励ます際や、ご自身が病気で信心を深めたいときに活用していただければ幸いです。
【病についての御書】
天台云く「今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り」(開目抄231-3)
天台大師はこう言っています。「今、私が抱えている病や苦しみは、すべて過去の行いによるものです。現在の善行や福徳の修養は、未来にその報いをもたらすのです。」
又八の巻に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん若は実にもあれ若は不実にもあれ此の人は現世に白癩の病を得ん若し之を軽笑すること有らん者は当に世世に牙歯疎欠・醜き脣・平める鼻・手脚繚戻し眼目角睞に身体臭穢にして悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」(十法界明因果抄431-10)
また、『法華経』八巻には次のように述べられています。
「もし、この経典(法華経)を受け持ち信じる人を見て、その人の過失や悪い点を暴露するようなことをすれば、たとえそれが事実であっても、または事実でなくても、その人は現世において白癩(白い斑点が現れる皮膚病)にかかるであろう。さらに、その人を軽蔑したり笑い者にする者は、次のような苦しみを世世にわたって受けることになる。歯が抜け落ちたり隙間ができたり、醜い唇や平たい鼻になる。また、手足が不自由になり、目が斜視になったり、身体が悪臭を放ち、悪い腫れ物や膿の出る病気、水がたまったような腹(腹水)、息切れ、その他の重い病気に苦しむことになるであろう。」
御義口伝に云く謗法の者は色心二法共に不浄なり、先ず心法不浄の文は今此の心不浄者なり、又身不浄の文は譬喩品に「身常臭処垢穢不浄」と云えり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心共に清浄なり、身浄は法師功徳品に云く「若持法華経其身甚清浄」の文なり、心浄とは提婆品に云く「浄心信敬」と云云、浄とは法華経の信心なり不浄とは謗法なり云云。(御義口伝765-6)
『御義口伝』には次のように述べられています。
謗法(仏法を誹謗すること)を行う者は、色法(身体)も心法(心)も、両方とも不浄である。まず、心法が不浄であることについては、「今この心が不浄である」と示されている。また、身が不浄であることについては、『法華経』譬喩品に「身体は常に臭気を放ち、垢や穢れにまみれている」とある。
しかし今日、日蓮やその門下のように「南無妙法蓮華経」と唱える者は、色法(身体)も心法(心)も共に清浄である。身体が清浄であることは、『法師功徳品』に「もし法華経を持つ者があれば、その身体は非常に清浄である」と述べられていることによる。心が清浄であることについては、『提婆品』に「浄心(清らかな心)で信じ敬う」と記されている。ここで言う「浄」とは法華経に対する信心を指し、「不浄」とは仏法を誹謗することである。
天台大師も本地薬王菩薩なり、能説に約する時は釈迦なり衆生の重病を消除する方は薬王薬師如来なり(御義口伝801-3)
天台大師は、本地(仏の本来の姿)では薬王菩薩である。また、法を説く能力においては釈迦牟尼仏そのものである。衆生の重い病を取り除き消し去るための法を示す存在としては、薬王菩薩や薬師如来に他ならない。
病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、(種種御振舞御書921-5))
病の原因を理解していない人が病気を治療しようとすれば、かえってその病気はさらに悪化してしまうだろう。
人間に生をうけたる人上下につけてうれへなき人はなけれども時にあたり人人にしたがひて・なげき・しなじななり、譬へば病のならひは何の病も重くなりぬれば是にすぎたる病なしと・をもうがごとし、(光日房御書929-10)
人間としてこの世に生を受けた者で、身分や立場に関わらず、何の悩みも持たない人はいません。しかし、多くの場合、時の流れや他人の言動に影響され、自分の悩みや嘆きをさまざまに思い煩います。これはまるで病気のようなものです。どんな病気であっても、症状が重くなれば、そのときにはそれ以上に重い病気はないと感じるのと同じです。
妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり、譬えば黄鵠の子・死せるに鶴の母・子安となけば死せる子・還つて活り、鴆鳥・水に入れば魚蚌悉く死す犀の角これに・ふるれば死せる者皆よみがへるが如く爾前の経経にて仏種をいりて死せる二乗・闡提・女人等・妙の一字を持ちぬれば・いれる仏種も還つて生ずるが如し、
(法華経題目抄947-2)
「妙」とは蘇生(よみがえり)の意味を持ちます。蘇生とは、再び生き返るという意味です。たとえば、黄鵠(こうこく)の子が死んだとき、鶴の母が「子安」と鳴けば、死んだ子が再び命を取り戻します。また、鴆鳥(ちんちょう)が水に入れば、魚や貝がすべて死んでしまいますが、犀(さい)の角がそれに触れると、死んだ者がすべて蘇るようなものです。同様に、爾前の経典(法華経以前の教え)では、仏種(仏となる種子)を持っていながらも二乗(声聞・縁覚)や闡提(仏法を信じない者)、女性などが悟りの道から閉ざされて死んだような状態でした。しかし、「妙」の一字を持てば、彼らの中に埋もれていた仏種が再び命を得てよみがえるのです。
かまえてさもと三年はじめのごとくにきうじせさせ給へ、病なき人も無常まぬかれがたし但しとしのはてにはあらず、法華経の行者なり非業の死にはあるべからずよも業病にては候はじ、設い業病なりとも法華経の御力たのもし、阿闍世王は法華経を持ちて四十年の命をのべ陳臣は十五年の命をのべたり、尼ごぜん又法華経の行者なり御信心月のまさるがごとく・しをのみつがごとし、いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ、(富木尼御前御返事975-6)
どうか、これからの三年間、最初の頃と同じように精一杯信仰に励んでください。病気でない人でも無常(死)は避けることが難しいものですが、今が人生の終わりではありません。あなたは法華経の行者であり、不自然な死に至ることは決してないでしょう。また、この病が業病(過去世の因縁による病気)であるとも思えません。たとえ業病であったとしても、法華経の力を頼りにすることで大丈夫です。
たとえば、阿闍世王は法華経を信じたことで四十年も寿命を延ばし、陳臣(中国の陳の時代の人)は十五年も命を延ばしました。あなたもまた法華経の行者であり、信心が日ごとに深まる様子は、月が満ちていくようであり、潮が満ちるように頼もしいものです。どうして病が癒え、寿命が延びないことがありましょうか。強い心を持ち、自らの身を保ちながら、心に憂いを抱かないようにしてください。
されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり、今女人の御身として病を身にうけさせ給う・心みに法華経の信心を立てて御らむあるべし(可延定業書985-14)
そこで日蓮が母の病を祈ったところ、この世においてその病が癒やされただけでなく、さらに四年間寿命を延ばすことができました。今、あなたが女性の身として病を負っておられるのも、きっと法華経の信心を試すための機会なのです。この信心をしっかりと立てて、さらなる御加護を得るべきです。
御消息に云く凡そ疫病弥興盛等と云云、夫れ人に二の病あり一には身の病・所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病なり、此の病は設い仏に有らざれども・之を治す所謂治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬・此れを治するにゆいて愈えずという事なし、二には心の病・所謂三毒乃至八万四千の病なり、此の病は二天・三仙・六師等も治し難し何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや、又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり、(治病大小権実違目995-6)
御消息には「疫病がますます流行している」とあります。人間には二種類の病があります。一つは身の病で、地・水・火・風の四大要素にそれぞれ百一の病があり、合計で四百四の病気があります。この身体の病は、たとえ仏でなくても治療できるものです。たとえば、治水、流水、耆婆(ぎば=古代インドの名医)や扁鵲(へんじゃく=中国古代の名医)などの方薬を用いれば、ほとんどの場合治らないことはありません。
もう一つは心の病であり、三毒(貪り・怒り・愚かさ)をはじめとする八万四千の病があります。この心の病は、二天(梵天・帝釈天)や三仙(優波斯那仙人など)、六師(古代インドの六つの異説の教えを説く者)ですら治すことが難しいのです。ましてや、神農(中国の農業と医学の神)や黄帝(中国の伝説的な帝王)の方薬では到底治すことはできません。
さらに、この心の病にはさまざまな深さや軽重、そして優劣の違いがあります。
to be continued
続きまっせ!