今朝も早朝から開目抄を拝読できました。
今日学んだところは、一言で言えば、「現代は怨嫉と戦うのが学会員の宿命」っていうことになりますかね。
ネットで色々学会の悪口を書く人がいて、嫌な思いをさせられたり、自分のリアルな人生の中でも学会員というこで、いじめられたり、嫌なことを言われたり、非常に多い。面と向かって悪口を言う人は、昔ほどはいないと思うけど、でも、まだまだ悪鬼入其身の人が多い。折伏しても聞かない人がそうです。悪鬼は善人をあだむねんて。人を幸せにしたくないのが第六天の魔王やからね。悪鬼はその手下やね。
折伏していくには必ず「忍難」と「慈悲」が必要で、難を忍びながら法を弘めていく覚悟がなければ、どうしても、相手の幸せなんかほっといてもええやんか、好きにしーやってなる。学会の話、もうせんといてって(もうしないでの関西弁)って何人に言われたか。段々様子見ながらちょっとずつ折伏にもっていく感じになりました(笑)。バシッと言ってやりたいけど言われへん。常識豊に折伏するのは時流ですかね。摂受折伏時によるべしってどこいった。今は末法と違うんかいってなります。摂受はあかんと思ってもなってしまってる。わからん。気持ちは折伏してるつもりやのに。(脱線した)
末法は悪が強いので、その悪と戦い人々に御本尊を教えようとしたら、絶対邪魔されるに違いありません。「元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」
同じ人なのに、その人の中に仏と魔王が同居してるんですよ。十界互具百界千如やからね。魔王が勝ったら仏が引っ込むんでしょうね。こっちは魔王と思って相手を見たらあかん、睨みたくなる。だから、相手の仏性を出させるために微笑んで題目を心であげる。相手の仏性よ出てこいって祈る。絶対相手を憎まない。実際そうしていると、昔、私をいじめていた人たちも皆仲良くなりましたから。仏性が少しでも出て来はったんやろうと思います。入会はしてないけど、旦那さん、未活の学会員って。中途半端やけど、お姑さん信心強盛みたいでよかった。(こんな体験書いてええんやろか。時効ですよね。独身の時の話です。)
私の好きな言葉に「願兼於業」という四文字熟語があります。仏法用語です。学会員は皆知ってると思う。今回出てきました。先生の講義を引用しておきます。
大聖人はご自身が受けている大難は、実は衆生を救う願いのために。あえて苦しみを受けていく菩薩の願兼於業と同じであるとされています。そして、菩薩が衆生の苦しみを代わりに受けていくことを喜びとしているように、大聖人も今、大難という苦しみを受けているが、悪道を脱する未来を思えば悦びである、と言われている。願兼於業とは、仏法における宿命転換の結論です。端的に言えば、「宿命を使命に変える」生き方です。人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく。それが仏法者の生き方です。意味のないことはありません。どんな宿命も、必ず、深い意味があります。それは、単なる心の在り方という次元ではない。一念の変革から世界の変革が始まる。これは仏法の方程式です。宿命を使命と変えていく強き一念は、現実の世界を大きく転換していくのです。(中略)
「戦う心」が即「幸福」への直道です。戦う中で、初めて生命は鍛えられ、真の創造的生命が築かれていきます。また、いかなる難があっても微動だにせぬ正法への信を貫いてこそ、三世永遠に幸福の軌道に乗ることができる。一生成仏とは、まさに、その軌道を今世の自分自身の人生の中で確立することにほかなりません。
御書にあるように「大難来たりなば、強盛の信心いよいよ悦びをなすべし」という大境涯に私たちもなれるということです。