御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御本尊相貌抄 日女御前御返事 1243頁 戸田先生の講義から 前半

戸田先生の日女御前御返事講義から

なかなか今聞ける話ではないので、よかったら読んでください。(青字が御書です)

 

御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候い畢んぬ、

ここで日蓮大聖人に、この日女御前がお金を五貫、米を一駄、菓子少々送りましたと最初にありますが、大聖人が非常に貧乏でお暮らしあそばしたというように、みんなとっておりますが、身延の山での大聖人のご生活は、私は貧乏であったとは思いません。

なぜならば、弟子の中に、大名がたくさんおられました。例えば房州の富木殿、武蔵の池上殿、上野の南条殿、鎌倉の四条金吾殿等々の豪族が帰依していて、大聖人お一人の暮らしを、事欠かせるようなことがあったとは思われません。

だが、なぜ日蓮大聖人は立派な寺も建てなかったし、身延の山にお籠りになって、そして絶えず御不足なご生活をなさっていたか。ここに不思議があります。それは身延というところは四方に山があり、四方に川が流れるというところであり、ああいう不便なところにお住みになったのは、日本の国を捨てたという立場に立っての大聖人の御隠栖だからであることは明らかです。

したがって大聖人様は金を貯めようとか、財産を増やそうとかいう御心は少しもないのです。これは波羅提木叉(はらだいもくしゃ)の戒と申しまして、少欲知足ということが仏の位なのです。

凡夫はお金を儲けなくてはいけません。大聖人様は仏様でいらっしゃいますので、我々凡夫のできない一つの御修行があるのです。それが少欲知足です。わずかの欲で食べるだけあればお金など考えていない。供養に頂いた金はどうしたかと言うと、みなお弟子方の折伏の費用にお使いになったとしか考えられない。例えば今の日女御前の御書に銭五貫とありますが、その頃のお金としたならば大変な額ではないかと思われます。一文銭が百枚で百文です。十束で一貫です。すると五十束のご供養をしたのです。大変なお金です一文銭でも大変な金です。米が一駄というと二俵ですが、米二俵とは我々が今考えている二俵とは全然違うのです。米のごく少ない時、布と米や金は交換材としてお金と同じに考えられたのでありますから、大変なものであります。これだけあれば大聖人としては、おそらく半年や一年は楽に暮らせる金です。

それだけご供養されたのですから、決して貧乏であられるわけがないのです。これが大聖人の身延の御生活を偲ぶ一つの材料でありますが、また日女御前につきましては、詳しい歴史は伝わっておりません。それにしても少なくともお金、五貫、米二俵、それに菓子はどんなものかしれませんが、そうしたものを差し上げるということは、相当な財産家でなくてはできないことです。相当な豪族の奥様であったと思うのです。御書から拝察するならば、また相当の信心の厚い方であると思われます。

御本尊の御下げ渡しは、手柄のあった者、信心のごく厚い者という条件付きですから、この日女御前に御本尊様のお下げ渡しのあった後の、お礼のご供養をたてまつったのですから、余程信心の厚い奥様であったと考えられるのです。

 抑(そもそも)此の御本尊は在世五十年の中には八年・八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり、

今あなた方が受けている御本尊のことです。この御本尊は在世とは釈尊の時代ですが、釈尊の時代でも八年間というのは法華経をお説きになった時をさし、その中でも特に従地涌出品から嘱累品の間に現れた御本尊であるということを大聖人は仰せです。

この法華経を読むにあたって、法華経をよく読んだという人がおりますが、私はどこまで法華経を読んだかということを、よくからかって聞く場合があります。あなた方の中に法華経を読んだなどといばる者がいたら、まず序品第一の問題をぶつけてごらんなさい。

それは序品にこうあります。二界八番の雑衆と、あとに御書の中にも出てきますが、舎利弗およびその他の声聞衆が万二千人、菩薩方が八万、耶輸多羅(やしゅたら)等の眷属が六千人、 阿闍世の眷属が何千人、また八番衆の眷属といいますと天・竜・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅・摩睺羅伽というような連中が、何万人という眷属を連れてきている。霊鷲山会にざっとその数を計算しても、何十万という衆生が集まったことになる。菩薩だけ集まっても八万人、声聞だけ一万二千集まると言っても大変です。拡声器もなかった時代に何十万の人を集めて釈尊が講義したと思われますか。法華経の文上から見れば集まったことになっている。これは大変な数です。何十万の人を集めて講義したと。それならウソかと。ウソではない。では、本当に集まったのか。何十万の人に拡声器もなくて、いくら仏が大音声を出したからと言って講義できましょうか。集まったと思われますか。八大竜王だって来ています。八大竜王だけならいいけれども、その竜王の眷属が皆来ている。緊那羅の眷属が来ている。いったいどういうことになるのですか。

八年間、それらの人達が集まっていたというのです。八年間集まっていたら飯を炊くだけでも大変です。便所なんかどうしたと思いますか。でウソかというのか。ウソではない。集まったともいえるし、集まらなかったともいえるのです。しかも霊鷲山の一会(いちえ)は天台大師は、釈尊滅後千何百年の人ですけれども「霊山の一会儼然として未だ散らず」と言っているのです。釈尊が死んでから千何百年後の人が、霊鷲山の一会未だ散らずと言っている。ここが問題なのです。

その何十万と集まったのは釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の菩薩なのです。何千万いたって差し支えない。しかして釈尊己心の本尊を序品からさき大空中へ、虚空会に描いたといって一向に差し支えないのです。

それが、眼目を得た、要を入れたというのが従地涌出品から嘱累品までの八品の間なのです。すなわち、釈尊が中央にいて虚空において法華経を説いたその時に、地から湧き出た大菩薩たちが空中いっぱいに座って釈尊法華経を聞き、最後に付嘱を受ける。この儀式が文底からいうと久遠元初に移っていくのですが、これを久遠元初の結要付嘱というのであります。

そこまでいくと面倒です。その久遠元初の儀式が御本尊様になるのです。久遠元初の儀式を、釈尊は涌出品から嘱累品にいたる八品の間に説きあらわし、御本尊を完成するのです。そしてその眼目は寿量品に入れてあるのです。これすなわち南無妙法蓮華経それ自体なのです。そうしてそれを厳然と大空中にかかげたのです。それが従地涌出品から嘱累品であるというのが今の文であります。

さて滅後には正法・像法・末法の中には正像二千年には・いまだ本門の本尊と申す名だにもなし、

すなわち釈尊滅後千年間を正法といい、千年から次の千年を像法といい、二千年過ぎてから釈尊の仏法の功徳がない時代を末法という。この正法、像法の間には、いまだこの御本尊を誰も顕さなかった。

何に況や顕れ給はんをや又顕すべき人なし、

顕れるべき理由もなければ、顕す人もなかったというのです。

天台妙楽伝教等は内には鑒み給へども故こそあるらめ言には出だし給はず、

この御本尊のことは天台大師も妙楽大師も、日本では伝教大師も知っていたのです。知っていたが顕さなかった。なぜ顕さなかったのか。「故こそあるらめ」とありますが、その故は天台、妙楽、伝教も仏から付嘱を受けてない。また顕すべき時でない。顕すべき相手方がいなかった。この条件のもとに天台、妙楽、伝教もともにこの御本尊を顕さなかったのです。

彼の顔淵が聞きし事・意にはさとるといへども言に顕していはざるが如し、

ちょうど、孔子の弟子の顔淵という人が、顔回ともいいますが、この人は師匠から聞いたことをみんな心にわかっていたが、決して口に出さなかった。おもしろい弟子ですが、その顔淵のようなものであると、こういうのです。

然るに仏滅後二千年過ぎて末法の始の五百年に出現せさせ給ふべき由経文赫赫たり明明たり・天台妙楽等の解釈分明なり。

ところが経文をみるに、法華経をみるのに、釈尊滅後二千年過ぎて次の五百年には、すなわち二千五百年の間には、必ずこの御本尊が顕れてくるということは経文に明白である。かつまた天台、妙楽の法華経の解釈にも明々白々であるというのです。後五百歳といいますと二千年から二千五百年の間です。その間にこの御本尊が顕れるというのです。

 爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、

ここに大聖人はいかなる不思議があってか、いうまでもなく久遠元初の自受用報身如来が、末法には日蓮とお生まれあそばされた。久遠元初の自受用身の垂迹上行、再誕日蓮とおっしゃった。すなわち、上行菩薩は久遠元初の自受用身の垂迹である。その上行の再誕であり、かつ久遠元初の自受用身の再誕である日蓮大聖人と、御自身ではっきりいいきっていらっしゃいます。なにも不思議でもなんでもないのです。だが一応御書の面では、竜樹、天親、妙楽、伝教といって、その天台の前に東洋の仏教の中興の祖ともいうべき人は竜樹菩薩、天親菩薩でありますが、いかなる不思議あってか、日蓮が竜樹、天親にも勝れ、天台・伝教にも勝れて法華弘通の旗印として、この大曼荼羅を顕したのだと。実際は釈尊滅後二千二百二十余年です。今の御本尊様は三十余年となっていて、その深いわけはあるのですが、それはまたの機会に話しましょう。ともかく二十余年のときに、法華弘通の旗印としてこの大曼荼羅を顕した。それで次に初めて大曼荼羅の説明があるのです。

是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、

そこで、これは日蓮が自作ではない。勝手に作ったものではない。多宝塔中の釈迦牟尼世尊多宝如来、分身の諸仏がもともとあった御本尊様をすりかたぎ、すなわち刷った、印刷したというのです。そのまま写したところの大曼荼羅です。日蓮が勝手に作ったものではない。すなわち三仏が写したてまつったところの御本尊である。こうおっしゃるのです。

されば首題の五字は中央にかかり・

首題の五字は中央にかかり、南無妙法蓮華経と中央にあり、その次に日蓮とおしたためです。ですから、南無妙法蓮華経日蓮で人法一箇をあらわすのです。

四大天王は宝塔の四方に坐し・

御本尊に向かって右の方の上が東になっていますが、持国天王、これは民を安んずるという王様です。それから下の方は広目天王、西を意味する。これは悪眼と訳しますが、悪いことをした者をすぐ捕まえるという王様です。左の方の上は毘沙門天王、たえず仏の法座を守るがゆえに仏法を多く聞くことができたという意味で多聞天といい、北の方にあたる。南の方は増長天王という。これは免離ともいい煩悩を離れしめる力のある王様です。これを四天王といい、ともに仏法擁護のための王様であって、帝釈天の外将である。すなわち家来です。帝釈天の命令通りに国家を安んじ仏法を守る。ですからあなた方が御本尊を受持すれば、この四天王は絶えずあなた方の家を護るのです。梵天、帝釈はいうまでもありません。

釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ

まず、御本尊を拝したてまつれば、右肩に多宝如来、左肩に釈迦牟尼仏、また右肩に上行と無辺行、左肩には安立行、浄行がきちんとお並びになっている。

普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・

その次の段のところには、向かって右に文殊、隣に薬王、左が普賢菩薩と。それから弥勒、大迦葉、右は舎利弗と、そういう大菩薩蓮が厳然と座っておられるのです。

日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り、

その外に大日天王、大月天王、大明星天王がきちんと座っている。向かって左側に書かれてあるのが愛染明王です。それから第六天の魔王がやはりきちんと座っているのです。いるのですから、まずいと言ってもしようがない。

 悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神十羅刹女等・

提婆達多十羅刹女鬼子母神がきちんと並ぶというのは、おかしいではないかという人がいますが、また第六天の魔王や鬼子母神や十羅刹がいるようでは、あぶないような気がするでしょうが、それはいてもらった方が助かるのです。

なぜかというと第六天の魔王が御本尊の中にいる。そうすると御本尊を拝み奉るときに第六天の魔王は御本尊のことをよく聞くのです。第六天の魔王がほかの魔将を命令できちんと押さえるのです。

十羅刹女、羅刹とは鬼ということで、鬼子母神がお母さんです。いいことない。ところが、これが御本尊のいうことをよく聞くのです。十羅刹女鬼子母神が御本尊の中にいるということは、男の人にとってはまことにありがたいことです。

女房というのは、いい女房ばかりとはきまらない。十羅刹女みたいな女房だっているのです。それがいつも十羅刹女みたいだったら困ります。娘でも、奥さんでも、それが南無妙法蓮華経と御本尊を受持すると、その十羅刹女がおとなしくなってしまう。御本尊の中の十羅刹女が、その奥さんの方にいる十羅刹女に向かって、お前もきちんと御本尊様のいうことを聞かなくてはいけないと、こっちの十羅刹女に命令するのです。だから鬼みたいな奥様が、おとなしい実に菩薩のような奥様に変わるのです。これで亭主は安心していられる。

加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・

以上のインドの神々に加えて、天照太神、左に正八幡大菩薩等の日本の神々も連なっている。この天照太神と正八幡大菩薩は日本のあらゆる天神地祇、あらゆる神々を代表しているのですから、その後ろには日本の神々がずーっと連なっているのです。だから天照太神と正八幡が二人だけきているのではありません。

先ほども申し上げましたように、こう拝しますと仏界についても多宝如来釈迦牟尼世尊の二人しか来ていないのではなくて、その後ろには十方の分身の諸仏がずーっと並んでいるのです。

また上行、無辺行、安立行、浄行の四菩薩も、そのあとに地涌の菩薩がずらりと続いているのです。あなた方も一緒にいたのです。私は前のほうで聞いていたから、あなた方より余計に覚えているけれども、皆さんはずっと後ろで居眠りしていたらしい。だからさっぱりわからないらしい。少しは今生で思い出してください。

其の余の用の神豈もるべきや、

本体の神がそこにいるのですから、用の神、働きの神がもれるわけがない。

宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、

宝塔品に「諸の大衆を接して皆虚空に在り」と。すなわちその姿は地上に並んでいる姿ではない。虚空にずーっと並んでいる姿なのです。これはたいしたものです。そこに君らも本当にいたのです。いたからこそ、こんな雨の日に、私の講義を聞かなければならないのです。

此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、

今申しましたように、あなた方の知っている名前の神々は全部あの御本尊の中に座っていることになっているのです。単なる紙ではないのです。紙に印刷したと思えばそれっきりです。本当に御本尊様を拝してごらんなさい。日蓮大聖人御一人が座っているのではないのです。そう考えることを観心という。すなわち信心です。大聖人様を中心としてその後ろにあらゆる仏菩薩や神々がずっと並ぶ、十羅刹女鬼子母神大竜王もおれば、薬王菩薩、文殊弥勒菩薩も声聞衆もずっと並んでいるのです。それに対して南無妙法蓮華経と唱える。そうすると後から出てきますが、こちらの生命にも同じようにあるのです。己心の舎利弗、己心の文殊、御本尊様に対して南無妙法蓮華経と唱えると仮に今自分は病気で困っている、そうすると御本尊のなかにあるところの薬王が働かざるをえない。こっちの薬王に言いつける。するとこっちの薬王が働く。医者に行ってどんなボロ医者でも、こっちの薬王が働いていますから、医者が自然にいい治療をせざるを得なくなるのです。

何か困ると、梵天、帝釈が働くのです。向こうからやってきて助けるのではなく、こっちにあるところの梵天、帝釈が働きだすのです。南無妙法蓮華経に照らされて御本尊様の方の梵天と帝釈がこっちに感応してくる。だから梵天、帝釈が働かざるをえなくなるのです。そして、自然に商売でもなんでもよくなってくるのです。

御本尊には今申しましたように何千、何万、何十万という大衆がいるのですから、それに商売繁盛させてくださいと頼むことになるのです。だからよくならないわけがない。信仰しないでももっているのですが、働かないだけなのです。

またそうだからと言って、商売もしないで南無妙法蓮華経ばかり唱えたってだめなのです。店を閉めておいて買いに来てくれといってもだめです。商売繁盛させたかったら、商売を一生懸命やらなければだめです。せっかく仏様の方で助けてやろうというのに、いらない、いらないというようなものだ。「助けてください、助けてください」と言いながら助けに行けば、嫌だというのと同じでしょう。

商売もしないで夜の商売みたいに座談会ばかり行っている者がいるとか聞きます。座談会には行くべし、同時に商売を一生懸命にしなさい。商売と座談会がぶつかったら商売を先にするのです。商売が第一、座談会は第二、特等は勤行と折伏です。休む時間で折伏、座談会をやるのです。これで貧乏する者は愚かです。

 

此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。

すなわち、南無妙法蓮華経日蓮とおしたための、その南無妙法蓮華経に照らされて、仏は仏、菩薩は菩薩、第六天の魔王は第六天の魔王というように、本有、すなわちもともとの立派な姿となって、御本尊の中に現れてくる。みな南無妙法蓮華経に照らされて本有の尊形となる。

南無妙法蓮華経に照らされなかったならば本有の尊形とならない。なぜかならば第六天の魔王といえども、あるいは人の命を奪う鬼子母神であろうとも、皆仏法のための所作なのです。ですから南無妙法蓮華経をやらなかったら勝手気ままな鬼子母神になってしまいます。南無妙法蓮華経の御威光に照らされて、初めて人を助ける第六天の魔王になり、人を助ける鬼子母神に変わるのです。本有の尊形となるのです。

この南無妙法蓮華経とおしたためだけではダメなのです。十界互具というのですが、あらゆる仏菩薩が全部その中に具(そな)わっているのが本尊です。具わるということを互具と言うのです。十界互具の本尊というのです。これを何も知らない身延では十界勧請というのです。勧請(かんじょう)というのは伏見の稲荷を大阪に勧請してきたとか、地蔵様を勧請してきたとか、連れてくることです。請い願って、勧めて連れてくることです。願ってきてもらうことです。よそから迎い入れて飾ることを勧請という。

この御本尊様は十界互具です。御本尊の中に具わっているのです。もともと天照太神に来てください、正八幡大菩薩に来てください、十羅刹女に来てくださいなどと言ってきてもらった本尊ではないのです。もともと南無妙法蓮華経に照らされて、そこに具わっている。だから勧請ではない。これを身延では十界勧請の本尊というのです。彼らは何も知らない。

この御本尊様は我々の命の姿でもある。阿修羅王と言えば怒る方、舎利弗と言ったら智慧提婆達多は地獄をあらわす。大竜王は畜生界をあらわす。

我々が腹を立てるときに、奥さんを今晩怒ってやろうと言って、阿修羅王きてくださいと言って怒る者がいますか。もともと修羅は我々の中にあるのです。またわざわざ地獄に来てもらう人がありますか。自分の生命の中にあるのです。具わっているのです。何も頼んで来てもらうのではない。

ましてや御本尊と現れたもうたからには十界そのまま具わっていなければならない。そこへ勧請してくるなどという馬鹿な話はあるものではない。勧請し損ねたらどうしますか、差し押さえに来られてしまう。ですから十界勧請という言葉は仏法用語としては完全な間違いです。十界互具の本尊というのです。

 

※前半はここまでとして続きは別のブログに書きます。最後の身延の話なんかは今聞いてもピンときませんが、身延にも御本尊はあるので言われたのだろうと思います。