第十一章 迹化未弘の所以を示す
<内容>
問答18:南岳・天台・伝教等は当体蓮華を証得するといえども内鑑冷然で妙法を流布しなかった。
<本文>
問う。南岳・天台・伝教等の大師、法華経に依って一乗円宗の教法を弘通されたといえども、いまだ南無妙法蓮華経と唱えられなかったのは、どういうわけか。もしそうであるなら、この大師等はいまだ当体蓮華を知らないし、また証得しなかったということではないか。
答う。「南岳大師は観音の化身、天台大師は薬王の化身である」といわれる。もしそうならば、霊山において本門寿量の説を聞いた時はこれを証得したけれども、在生の時は妙法流布の時ではなかった。故に、妙法の名字を替えて止観と号し、一念三千・一心三観を修されたのだ。ただし、これらの大師等も南無妙法蓮華経と唱うることを自行真実の内証と思っておられたのだ。南岳大師、法華懺法に云わく「南無妙法蓮華経」文。天台大師云わく「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文。また云わく「稽首妙法蓮華経」云々。また「帰命妙法蓮華経」云々。伝教大師、最後臨終の十生願の記に云わく「南無妙法蓮華経」云々。
問う。文証分明である。どうして内証されたことをそのまま弘通されなかったのか。
答う。これにおいて二意がある。一には時の至らざるが故に、二には付嘱にあらざるが故である。およそ妙法の五字は末法流布の大白法である。地涌千界の大士に付嘱された法である。この故に、南岳・天台・伝教等は内に鑑みて、末法の導師にこれを譲って弘通されなかったのである。
<感想>
この章で当体義抄は終わりです。
「妙法の五字は末法流布の大白法なり」との御金言を瞬時たりとも忘れてはならないと講義で言われています。希望と歓喜に燃えて折伏行に励む時であり、一人の人を折伏して救いきることこそ、我が身が本門寿量の当体蓮華仏と顕れる直道である、と言われています。本抄の正意もここにある、と。
読んでくださった方、ありがとうございました!