御書大好き!!

沢山の人が御書に親しめるように、現代語訳や講義、感想など書きます。

顕仏未来記ー① 全505頁 新606頁 二回目です。

前に一度概略を載せましたが、今回は本文を現代文で載せていきます。

日蓮大聖人御書講義第七巻を参考にしています。)

重複するかもしれませんが、背景と講義の序講から少しだけ追加しておきます。

本抄は文永10年5月11日、如説修行抄とほぼ同時期またはその直後に佐渡において書かれたものです。とくに宛名はないので、門下一同に対して与えられたと拝せられます。

日蓮大聖人の広布の予言書として重大な意義を有し、御本仏の絶対の確信に満ちた偉大な書であります。おそらく弟子達にご遺言のようなお気持ちで、全生命をこめて烈々たる気迫で書かれたに違いない。本文に「日蓮この道理を存してすでに二十一年なり、日ごろの災・月ごろの難・この両三年の間のこと、すでに死罪に及ばんとす。今月万が一ものがれがたき身命なり。世の人疑いあらば委細の事は弟子に問え」と。まさにこの中に、大難の中本抄を御術作されたお心がにじみ出ているではないか。(中略)

今日、広宣流布、世界広布をめざし実践する人にとって、感銘深き御抄であり、仏の未来記がいかに偉大であり、虚妄なきかを痛感する書であると確信する。

 

顕仏未来記  文永10年(ʼ73)閏5月11日 52歳

 

第一章 釈迦の未来記を挙げる

<本文>

           沙門日蓮これを勘う。
 法華経の第七の巻(薬王品)に云わく「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむることなかれ」等云々。
 予、一たびは歎いて云わく、仏の滅後既に二千二百二十余年も経っている。いかなる罪業によって、仏の在世に生まれなかったのだろう、正法時代の四依と呼ばれる迦葉・阿難・竜樹・天親等の菩薩や、像法時代の天台・伝教等にも巡り合えなかったのであろうかと。
 また一たびは喜んでいう、いかなる幸いあって、後の五百歳に生まれてこの真実の文を拝見することができたのであろうかと。
 在世に生まれても無益であった。なぜなら前四味の人はいまだ法華経を聞いていないし、正像に生まれてもまた意義がない。法華経は説かれてはいたが、南三北七ならびに華厳・真言等の学者は法華経を信じなかったからである。天台大師云わく「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」等云々。これは妙法の広宣流布の時を指している。伝教大師云わく「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り」等云々。末法の始めに生まれることを願い慕っている言葉なのである。時代をもって果報をの優劣を論ずれば、自分は正法時代の竜樹・天親に超過し、像法時代の天台・伝教にも勝れているのである。

(この第一章はわかりやすいと思います。なので、次第二章・・・)

 

第二章  末法に留難あるを明かす

<本文>

 問うて云わく、「後の五百歳」の記文はあなた一人に限って説かれたものではないのに、どうして特にこれを最上の喜びとしているのか。


 答えて云わく、法華経の第四の巻(法師品)に云わく「如来の現に在すすらなお怨嫉多し。ましてや滅度して後にはさらに大きな怨嫉が競い起こるであろう」と説かれている。天台大師云わく「いかにいわんや未来はいうまでもない。その理由は、教化し難いところにあるのである」文。妙楽大師も次のようにいう、「『理由は、教化し難いところにある』とは、この理由を明かす真意は、末法衆生が教化し難いことを知らしめることにある」と釈している。

智度法師云わく「俗に良薬口に苦しと言うがごとく、この経は五乗の異執を廃して(偏見に執着することを打ち破って)人生の目的はただ一つ、つまり)一極の玄宗を立つことである(即身成仏の根本の宗旨を立てることである)。故に、人においては、爾前の凡位を斥け聖位の者を呵責し、法においては、諸々の大乗を排し、小乗を破折する。乃至そのために、このように破折を受けた五乗・凡聖の徒輩が、皆、ことごとく正法流布を妨げるという留難をなすのである」等。
 伝教大師云わく「代を語れば則ち像法の終わり末法の始め、地を尋ねれば唐の東・羯(かつ=摩羯国)の西、人をたずねれば則ち五濁悪世の末法に生を受けた衆生であり、闘諍堅固の時代の人である。経に云わく『なお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや』。この言、まことに故あるなり」等云々。この伝教大師の筆跡は、その時に当たるに似たれども、本意は末法の現在を指している。「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り」の釈は、実に深い心を持った言葉ではないか。
 経に云わく「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等がつけこんで、様々な災いをなすであろう」と説かれている。言うところの「等」とは、この経(の陀羅尼品)にまた云わく「もしは夜叉、もしは羅刹、もしは餓鬼、もしは富単那、もしは吉遮、もしは毘陀羅、もしは犍駄、もしは烏摩勒伽、もしは阿跋摩羅、もしは夜叉吉遮、もしは人吉遮」等云々。この文にあるのは、先の世において四味三教乃至外道・人天等の法を持得して、その結果、今生に悪魔・諸天・諸人等の身を受けたる者が、円教であり実教である法華経の行者を見聞して、その行者に留難を加えるであろうことを説いているのである。