御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

上野殿御返事 1511頁 54歳御作

別名を「阿那律果報由来」という。

建治元年5月3日、南条時光に与えられたお手紙。

釈尊十大弟子の一人で天眼第一と言われた阿那律が受けた果報が供養の功徳であると述べ、時光の信心をほめられたのち、迫害があっても乗り越えて信心に励んでいくよう教えられています。

 

上野殿御返事 建治元年五月 五十四歳御作
 与上野次郎時光


 五月二日にいものかしら(里芋の茎)、石のように干されているのを一駄(馬一頭に負わせる荷物の量を一駄という)、富士の上野から身延の山へ送っていただいた。
 仏の御弟子の阿那律という人は天眼第一の阿那律といって十人の御弟子の一人で、迦葉・舎利弗・目連・阿難に肩を並べた人である。この人の由来を尋ね見ると、師子頰王(ししきょうおう)という国王の第二の王子に斛飯王(こくぼんのう)という人の御子で、釈迦如来のいとこであられた。この人の御名は三つある。一には無貧・二には如意・三にはむりょう(無獦=無猟)という。一つ一つに不思議な事がある。

昔、飢饉の世に利吨尊者(りだそんじゃ)という尊い辟支仏(ひゃくしぶつ)がいた。飢饉の世に七日間食事もできないでいたが、山里で猟師の御器に入れていた稗(ひえ)の飯(はん)を乞うて食事された。この故に、この猟師は現在には長者となり、のち九十一劫の間、人界・天上界に楽しみを受けて、今、最後に斛飯王の太子とお生まれになった。金の御器に飯は常に絶えることなく、阿羅漢となられた。御眼には三千大千世界を一時にご覧になり、たいそう立派になられて、法華経第四の巻において普明如来と成るであろうと仏に仰せを蒙(こうむ)られた。妙楽大師は此の事を釈して云く「稗の飯は軽いと雖も所有を尽しており(稗の飯は大したものではないけれども、ある限りのものをすべて出し)、及びそして、それを受け取る田(辟支仏)が勝れていたが故に、各別に勝れた勝報を得たのである」と云云、釈の意味はたいしたものではない稗の飯ではあるけれども、此れよりほかには・何も持っていなかったなかで、尊い人が飢えていらっしゃったときに差し上げたために、このような素晴らしい人となったのである、ということである。
 此の身延の沢は石などは多くあるが、供養された石のように干したいもがしらはない。その上、夏のころなので、民の暇(いとま)もないであろう。又御造営といい、多忙であろうのに、山里の事を・思いやられて送っていただいた。詮ずるところはわが親とのわかれを惜しんで父親の追善のために釈迦仏・法華経へ差し上げられたのであろうか。

孝養の御心であろうか。そのような事がなければ梵王・帝釈・日月・四天がその人の家をすみかとしようと誓われたことは果たせなくなってしまう。言うに甲斐なきものであっても約束という事は違えないのが習いであるから、この人人がどうして仏前の御約束を、違えられることがあるだろうか。もしこの事が本当になるならば、わが大事と思う人人が(信心を)制止し、又大きな難が来る、その時すでに此の事が叶うに違いないと思っていよいよ強盛に信心すべきである。そうであるならば聖霊は成仏されるであろう。成仏されたならば来て守護されるであろう。その時一切は心のままである。くれぐれも人の制止があったならば心にうれしく思いなさい。恐恐謹言。
 五月三日 日 蓮 花押
 上野殿御返事