弘安元年十一月二十九日、身延から池上宗長に与えられた御消息です。宗長が銭と厚綿の小袖を御供養したことに対する御返事で、別名を「深山厳冬の事」もしくは「厳冬深山御書」といいます。
宗長の御供養の志をたたえて、特に寒さが厳しかったその年の身延の様子を詳しく述べておられます。その上大聖人は前の年から下痢で悩まれていたことを明かし、供養された綿入りの小袖がなければ凍え死んでしまうことだろうと言われています。身延の草庵には常に四十人から六十人の門下が集っていると述べ、池上兄弟と父親の間がよくなったことや、主君に信任されていることを喜ばれています。
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兵衛志殿御返事(深山厳冬の事)
弘安元年(ʼ78)11月29日 57歳 池上宗長
銭六貫文〈内一貫は次郎からの分として〉、白厚綿の小袖一領、いただきました。
四季にわたりて財を三宝に供養されることは、いずれもいずれも功徳にならないことはない。ただし、時に随って勝劣・浅深があります。飢えている人には、衣をあたえたるよりも、食をあたえることのほうが、いますこし功徳がまさる。こごえたる人には、食をあたえるよりも、衣はまたまさる。春夏に小袖をあたえるよりも、秋冬にあたえたほうが、また功徳が倍増します。これをもって一切がわかるでしょう。
ただし、このことにおいては、四季の別なく、日月も問わず、ぜに・こめ・かたびら・きぬこそで、日々月々にひまなくいただいております。例せば、びんばしゃらおうが教主釈尊に日々日々に五百輛の車【に供養の品を積んで】おくり、阿育大王が十億の沙金を鶏頭摩(けいずま)寺に布施したごとくです。【これらの人とあなたの供養とは】大小ことなれども、(あなたの)志はかれにもすぐれている。
その上、今年は子細候(いつもの年と異なる事情があります)。ふゆと申すふゆ、いずれのふゆかさむからざる。なつと申すなつ、またいずれのなつかあつからざる。ただし今年は、他国はどうか知りませんが、この身延の波木井(はきり)は異常なほど寒いのです。古くから住んでいる老人どもに問いてみると、八十・九十・一百(百歳)になる者の物語り候は、すべて、いにしえこれほど寒い時代はなかった。この庵室より四方の山の外、十丁二十丁は、人も通うことがないから知りませんが、近辺一丁二丁のほどは、雪一丈二丈五尺等も積もっています。このうるう十月三十日、ゆきすこしふりましたが、やがてそのうちに、きえてしまいました。この月の十一日たつの時より十四日まで、大雪が降りましたが、二・三日してすこし雨がふって、雪が凍って固くなること金剛石のようであります。いまもきえることはありません。ひるもよるも、さむくつめたいことは並外れています。酒は凍って石のようです。あぶらは凍って金のようです。なべ・かまに少しの水あれば、凍って割れてしまいます。寒さいよいよ厳しくなってきて、きものはうすく、食物も乏しくて、外に出るものもありません。
庵室は半分作りかけの状態で、風雪を防ぐこともできず、しきものもありません。。木を取りに表にでるものもなければ、火も焚きません。古い垢(あか)の付いた小袖一枚くらい着たものは、その肌のいろが(厳寒のため)紅蓮・大紅蓮のようです。
その声は、阿波波地獄・大婆婆地獄から発する異様な声そのままです。手足凍えて、きれ、さけ、人死ぬことかぎりなし。俗(在家)のひげをみれば、ようらく(瓔珞)をかけたようです。僧の鼻をみれば、鈴をつらぬきかけたようになっています。
こんなふしぎなことはかつてなかったことです。去年の十二月の三十日より腹の病がありましたが、春夏治ることがなかったです。秋がすぎて十月のころ大事になってしまいました。すこし治ったかと思ったり、ややもすればまたぶり返し、兄弟二人のふたつの小袖、綿が四十両も入っているのに、なつのかたびらのように軽い。まして今までのは綿はうすく、ただ布ばかりのようなもの、どうか想像してみてください。この二つの小袖がなかったならば、今年は凍え死にしてることでしょう。
その上、兄弟と申し、右近尉のことと申し、食もあいついで到着しました。この庵室は人はなき時は四十人、ある時は六十人、いくら断っても、これにある人々の兄と言って出来し、舎弟と言って来ては腰を落ち着かせているので、気兼ねして、何とも言えずにおります。
心には「しずかに庵室で、小法師と我が身ばかり御経よみまいらせん」とこそ思っていましたのに、こんな煩わしいことはありません。また、としがあけましたら、どこかへ逃げてしまいたいと思っております。こんなわずらわしきことはありません。またまた申しあげることにいたしましょう。
なによりもえもんの大夫志と殿との御事、御父との間のことといい、主君の信任と申し、対面でなければ言い尽くすことができません。恐々謹言。
十一月二十九日 日蓮 花押
兵衛志殿御返事