御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 別伝 序品

二十八品に一文ずつの大事 合わせて二十八箇条の大事、秘すべし云々

 

   序品
 十界なり 始覚
於無漏実相 心已得通達(無漏実相に於いて、心すでに通達することを得たり)
 妙法 不変 随縁
 この文は、我が心本より覚なりと始めて覚るを、成仏と云うなり。いわゆる、南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり。

<通解>

この経文「無漏」の右横(御書では右横ですが、このブログでは上側)に「十界なり」と書いてあります。無漏とは漏れることがないという意味で十界の生命全体をいい、実相の相とは始めて覚ると解釈する。すなわち十界の衆生ことごとくが事実の上に仏界を湧現して、始めて我が身が妙法の当体であると、自覚するという意味です。

さらに経文の左(ここでは下)に註を附されていわく、無漏とは完全無欠の理である妙法をいい、実とは真実、すなわち不変真如の理、相とはあらわれた姿、すなわち随縁真如の智をいい、また、経文全体を「無漏実相に於いて心すでに得たる通達なりと」と読むのである。

無漏実相とは御本尊であり、「に於いて」とは御本尊を信じて唱題することである。「通達」とは南無妙法蓮華経それ自体であり、我が身、大宇宙の本源の当体、我が身、自受用智を湧現する根本の当体と覚知した、その境涯に達した生命それ自体なのである。「すでに」とは元来、もともとの意であり、久遠元初以来ということである。

 

したがって経文全体の御義口伝にいわく、この文は、我が生命が久遠元初以来、仏の当体であると、始めて事実の上に覚ることを成仏というのである。すなわち、我が身が南無妙法蓮華経の当体であると、始めて事実の上に覚るのは、御本尊に向かって唱題するからである。

 

この御文は信心の究極は確信であることを教えられています。通達とは確信であると講義されています。最後の勝負は確信があるかないかで決まると。