御書大好き!!

沢山の人が御書に親しめるように、現代語訳や講義、感想など書きます。

乙御前御消息 現代語訳 新1686頁 全1218頁

以前もこの乙御前御消息をブログで書きましたが、長いので現代語訳してなかったと思うので、今回全文を現代語訳してみました。2月の大白蓮華の座談会御書、研修教材になっていますので、是非参考にしていただきたいと思います。御書全集では4頁半ほどのお手紙になります。比較的長いですよね。私が半紙に筆と墨で書いたら何時間かかるんやろって考えてしまいました。途中で肩凝って休憩ばっかりしてなかなか進まないかもしれん、なんてことを考えてしまって、不届き者って怒られそうですね。

 

〈現代語訳〉

建治元年(ʼ75)8月4日 54歳 日妙・乙御前

 中国にまだ仏法が伝わっていなかった時代には、三皇・五帝・三王や太公望、周公旦、老子孔子といった聖人たちが経典や書物を編みました。それらを「経」や「典」と名付け、人々に礼儀作法を教え、父母への孝行や王臣のあり方を示して世を治めました。そのため、民衆も従い、天もそれを受け入れました。これに反した子供は不孝者とされ、臣下は逆臣として罰せられたのです。

その後、月氏(現在の中央アジアの一部)から仏経が伝わってきたとき、一部の人々は「この経は用いるべきではない」と言い、別の一部の人々は「これは用いるべきだ」と主張しました。この議論が激化したため、両者を集めて論争させたところ、外典の学者たちは負け、仏教徒が勝利しました。それ以降、外典の学者たちは仏教徒に比べて無力であり、やがて全く影響力を失ってしまいました。

さらに、仏経が次第に広がる中でも、仏経の中には勝劣や深浅があります。たとえば、小乗経・大乗経、顕教密教、権教・実教といった区別です。

たとえるならば、すべての石が金に劣るように、すべての経典も仏経には及びません。しかし、金の中にも優劣があります。たとえば、普通の金は閻浮檀金(インド神話に登場する最高の金)には及ばず、閻浮檀金も梵天界の金には及ばないように、すべての経典の中にも勝劣・深浅があるのです。

小乗経とは、世間の小舟のようなものです。この舟には2人や3人など少人数しか乗せることができず、百人や千人を乗せることはできません。たとえ少人数が乗れても、対岸まで安全に運ぶことは難しく、大きな荷物を積むこともできません。

一方、大乗経とは大きな船のようなものです。この船には10人、20人の人が乗れるだけでなく、大きな荷物も積み込めます。そして、鎌倉から九州や東北地方に至る長い航海も成し遂げることができるのです。

 実経(法華経)の教えとは、大船の大乗経すら及ばないものです。この船は、非常に多くの宝物を積み、百千人が乗り込むことができる上、遠く高麗(朝鮮)などにも渡ることができます。この一乗法華経も、それと同じようなものです。

たとえば、提婆達多という人は、この世界で最悪の罪人でしたが、法華経の力によって未来に天王如来となることが予言されています。また、阿闍世王という王は父を殺した悪王でしたが、法華経の教えを聞いて、その座に列し、一偈一句を聞いたことで仏縁を結ぶことができました。そして、竜女という蛇の姿をした女性も、文殊師利菩薩が法華経を説いたことで仏となりました。

さらに、仏は「悪世末法」という時代を示して、この教えを未来の末法の時代の人々に与えられました。この法華経こそ、大海を渡る唐船のような存在であり、一乗経(唯一無二の教え)です。

このため、一切経(仏教経典全体)は外典(仏教以外の教え)に比べれば、石と金ほどの違いがあります。また、大乗経の中でも、華厳経大日経、観経、阿弥陀経般若経などの経典を法華経と比べれば、蛍火(日没時の光)と太陽や月、華山(高くそびえる山)と蟻塚ほどの差があります。経典の間に勝劣があるだけでなく、大日経を学ぶ真言師(真言宗の僧)と法華経を実践する行者を比べるならば、水と火、露と風を比べ合わせたような違いがあります。犬が師子(ライオン)に吠えれば腸(はらわた)が腐り、修羅が太陽を射ようとすればその頭が七つに裂けるのと同じように、真言師は犬や修羅のような存在であり、法華経の行者は太陽や師子のような存在です。

 氷は太陽が出ないときには金のように固く、火は水がないときには鉄を焼くほど熱くなります。しかし、夏の日差しにさらされれば固い氷も簡単に溶け、熱い火も水をかければあっという間に消えてしまいます。同じように、真言師はその外見の威厳や知恵を誇りますが、あたかも太陽を知らない者が固い氷を頼り、水を知らない者が火を頼りにするようなものです。

 

当世の人々は、蒙古国の襲来を見る前には、皆驚くほどのおごり高ぶりを見せていました。それは、あなたがご覧になったように限りないものでした。しかし、昨年の十月(文永の役)以降、誰一人としておごる者はおらず、すべての者が恐れおののいています。以前からお聞き及びのように、蒙古襲来についてこれを警告したのは日蓮一人だけでした。そして、もし襲来が現実のものとなった時、私の言葉を信じずにいた人々は、私と顔を合わせることさえできないでしょう。ただ、猿が犬を恐れ、蛙が蛇を恐れるように、恐怖に震えるだけです。

 これはひとえに、釈迦仏の使いである法華経の行者(日蓮)を、一切の真言師・念仏者・律僧らが憎み、その憎しみによって法華経の行者を貶め、さらに天からも憎まれるように仕向けた、この国の業(カルマ)によるものです。そのため、すべての人々が臆病になってしまいました。たとえるなら、火が水を恐れ、※木が金属を恐れ(下に説明を書きました)、雉が鷹を見て魂を失い、鼠が猫に追い詰められるようなものです。この状況で、誰一人として救われる者はいないでしょう。その時、あなたはどうされますか。

戦(いくさ)においては、大将軍が全軍の魂です。もし大将軍が臆してしまえば、歩兵もまた臆病になります。女人(女性)は夫を魂としています。夫がいなければ、女人には魂がありません。この世に夫を持つ女性でさえ、世の中を渡るのは容易ではないように見えます。それにもかかわらず、夫を失い魂を持たずにこの世を生きるあなたが、魂を持つ女性をも凌駕するほど毅然としておられるのは驚くべきことです。そのうえ、※神にも心を尽くし、仏をも敬われているので、人々の中で際立って優れた女性でいらっしゃいます。

 鎌倉にいた頃は、念仏者たちはさておくとして、法華経を信じる人々が、心から信仰しているのか、あるいはそうでないのかはよくわかりませんでした。しかし私が御勘気(幕府の罰)を受け、佐渡の島に流された時には、訪ねてくる人もなく、孤独な状況でした。その中で、あなたが女性の身でありながら、深い信仰心を持ち、自ら進んで私を訪ねてくださったことは、現実ではないのかと思うほど不思議なことでした。

さらに今回のご参詣についても、感謝の念に堪えません。きっと神々もあなたを守り、十羅刹女もさらに哀れまれることでしょう。

法華経は、女性にとって暗闇を照らす灯火であり、海を渡る船であり、恐ろしい場所での守護となるべき経典だと説かれています。羅什三蔵が法華経を漢土に伝えた時、毘沙門天王は無数の兵士を派遣して葱嶺(そうれい=パミール高原)を渡る彼を守護しました。また、道昭法師が野中で法華経を読んだ時には、無数の虎が集まり彼を守護しました。このような守護は、今のあなたにも必ず及んでいるはずです。

さらに、地には三十六祇(地神)、天には二十八宿(天の星々)があなたを守護しているうえに、人間には必ず二つの天が影のように寄り添い守護しています。一つは「同生天」と呼ばれ、もう一つは「同名天」と呼ばれるものです。これらは左右の肩に寄り添い守護します。過ちのない者に対しては、天も決して誤ることはありません。まして善人においてはなおさらのことです。

妙楽大師は、「必ず心が固く揺るがなければ、神々の守護も強いものとなる」と説かれています。人の心が堅固であるならば、神の守りは必ず力強くなるのです。

 これはあなたのために申し上げているのです。かつてのご志は素晴らしいものでした。しかし、それに加えて、さらにもう一段と強い決意を持たれるべきです。そうすれば、ますます十羅刹女の守りも強くなると思われるがよい。

他の例を挙げる必要はありません。日蓮は、日本国の上は天皇から下は庶民に至るまで、誰もが命を奪おうとした者ばかりでしたが、今日まで生き長らえているのは、ただひとりであっても心が強かったからだと思います。

ひとたび船に乗れば、船頭の判断が誤れば船中の乗員全員が危険に陥ります。また、どれほど身体が強くても、心が弱ければ多くの能力も無駄になるのです。日本には賢い者がいるだろうが、大将が策を誤れば、彼らの才能も生かされることはない。その結果、壱岐対馬、九州の武士たちや男女が数多く殺され、捕らえられ、海に身を投げたり崖から落ちたりした者が何千何万といるのです。

また、次に蒙古が攻め寄せてきたならば、以前の比ではなくなるでしょう。京や鎌倉も壱岐対馬と同じようになるはずです。今のうちに準備をして、どこへでも逃げられるように備えてください。

その時には、かつて日蓮を見たくもない、聞きたくもないと言っていた人々も、手を合わせて法華経を信じるようになるでしょう。念仏者や禅宗の者でさえも、「南無妙法蓮華経」と唱える日が来るはずです。

 そもそも法華経を心から深く信じる男女は、経文によれば肩に担ぎ背に負ってでも支えるべき存在とされています。その証拠に、羅什三蔵は木彫りの釈迦如来像に守られたと言われています。また、日蓮の頭上には大覚世尊(釈迦如来)が常に伴ってくださっています。このように、昔も今も変わることはありません。あなた方一人ひとりは日蓮の檀那(信徒)ですから、どうして仏にならないことがありましょうか。

 

 どれほど優れた男性であったとしても、法華経に敵対する者には決して従ってはなりません。どうか、ますます強い信仰心をお持ちください。氷は水から生まれるものの、水よりも冷たくなります。青色は藍から生まれますが、染めを重ねるほど藍の色を超える鮮やかさを持つようになります。同じく法華経を信じているとしても、信仰を深めることで他の人を超え、さらに多くの利益(利生)をもたらすことができるのです。普通の木は火で焼かれますが、栴檀(せんだん)の木は燃えません。火は水で消されますが、仏の涅槃の火は消えることがありません。花は風で散りますが、浄居天(じょうごてん)の花は枯れることがありません。水は大干ばつで干上がることがあっても、黄河に入れば失われることはありません。檀弥羅王という悪王は、月氏(インド北西部)の僧侶の首を斬ったときは何の罰も受けませんでしたが、師子尊者の首を斬ったときには、自分の刀と手が同時に落ちてしまいました。また、弗沙密多羅王が鶏頭摩寺(仏教の寺院)を焼き払った際には、十二神に頭を棒で割られて死にました。

今の日本の人々もまた、法華経に敵対して身を滅ぼし、国を滅ぼしているのです。こう言うと、日蓮自画自賛していると仏法の理解のない人はいうでしょう。しかし、そうではありません。これを言わなければ法華経の行者ではありません。また、この言葉が後に現実となればこそ、人々は信じるようになるのです。このように書き記しておけば、未来の人々も「ここに智者がいたのだ」と知ることでしょう。

また「身は軽く、法は重い。身を犠牲にして法を弘めよ」とあります。身が軽いからこそ、人々が罵り、傷つけようとも、法が重いゆえに必ず広まるのです。法華経が広まれば、たとえ死体となったとしても、その重みは増すでしょう。そして、その死体が重みを増すならば、それは人々を救済する力を持つはずです。その救済があるならば、今の八幡大菩薩のように崇められるでしょう。そのときには、日蓮を供養した人々もまた、武内宿禰や若宮大明神のように敬われることでしょう。

〈説明〉

【ここはこの御消息が別名「身軽法重抄」と言われるところです。この赤字の個所をもっと意味をとらえてわかりやすく訳し直しますと、次のようになります。

たとえ私自身が軽んじられ、迫害されたとしても、法華経という教えの価値は揺るがず、必ず広く弘まることでしょう。その教えが弘まる暁には、私が命を捧げた意義は後世に認められ、私の存在が重く尊いものとして語り継がれるはずです。そのとき、私が果たした行いは、多くの人々を救う力となり、後には八幡大菩薩のように尊ばれる存在となるでしょう。】

 

本文に戻ります:

そもそも、一人の盲目の人の目を開かせるだけでも、その功徳は計り知れないものです。ましてや、日本国中のすべての人々の目を開かせる功徳がどれほど大きいことでしょう。さらに言えば、一閻浮提(全世界)や四天下(仏教の宇宙観における四つの大陸)の人々の目を開かせる功徳となれば、いかに偉大なものでしょうか。

 法華経の第四巻には「仏が滅した後に、その教えの義を理解する者は、すべての天と人の世間の眼である」とあります。法華経を信じる人々は、すべての天人の目のような存在だと説かれています。しかし、日本の人々が日蓮を憎むのは、まさにその世間の天と人の目をくりぬくり抜く人だということです。そのため、天は怒りを示して日ごとに天変地異が起こり、地は怒りを示して月ごとに災害が重なっているのです。

 天の帝釈天は、野干(やかん/ジャッカル)を敬い、その教えを学んだことで、現在の教主釈尊仏陀)となられました。また、雪山童子は鬼を師として教えを受けたことで、今では三界の主(世間を統べる者)となりました。このように、偉大な聖人たちは外見や立場を卑しむことなく、教えを捨てませんでした。今の日蓮が愚かに見えるとしても、野干や鬼に劣ることはありません。また、現代のどんなに賢い人々であっても、帝釈天や雪山童子には勝ることはできないでしょう。日蓮がその卑しい身分ゆえに正直な言葉を捨てずにいるため、国がすでに滅びようとしていることが悲しいことです。また、日蓮を「かわいそうだ」と言った弟子たちも救うのは難しいと思われることが、何よりも嘆かわしく感じられます。

 何か事態が起こり、可能であるならば、こちらにお越しください。お目にかかりたいと思います。そして山中で共に飢えて死ぬことになるでしょう。また、乙御前はもう大人になっていることでしょう。どれほど賢く成長しているかと思うと楽しみです。それについても、また改めてお伝えします。


  八月四日    日蓮 花押
 乙御前へ

 

 

※木が金属を恐れる!?わかりますか?

私はのこぎりとかを怖がってるのかな~って思いましたね。

 

御書本文の「木が金をおぢ」というところ、何やろって思ったので調べました。

 

「木が金属を恐れる」という表現は、仏教や東洋哲学において五行思想に基づく比喩です。この思想では、自然界のすべての現象や事象を「木・火・土・金・水」の五つの要素(五行)に分類し、これらの間には「相生(互いを生じる)」と「相克(互いを克する)」の関係があるとされています。

五行思想における「相克」の関係

「相克」とは、ある要素が別の要素を抑制または克服する関係を指します。具体的には以下のように説明されます:

  • 木は土に根を張り、土を克する
  • 土は水を吸収し、水を克する
  • 水は火を消し、火を克する
  • 火は金属を溶かし、金属を克する
  • 金属は木を切り倒し、木を克する

ここで「金属が木を切る」というのは、鋭利な金属(斧や鋸など)が木を切り倒す様子を比喩的に表現しています。このことから「木が金属を恐れる」という表現が生まれたと考えられます。

納得ですね。

 

神にも心を尽くし、仏をも敬われているので

この神とは?って思ったので、調べてみました。

普通、日本では、仏教における仏や菩薩と異なる存在、つまり神道の神々を指していると考えられます。

当時の日本では、神道と仏教が共存し、しばしば融合していました。人々は仏を信仰しつつも、神道の神々(たとえば八幡神天照大神など)に対しても敬意を払い、祭祀や祈願を行うことが一般的でした。この文脈で「神に心を尽くす」というのは、神道の神々に対しても敬意を払ったり、信仰心を持って祭り事や祈りを捧げたりすることを指しています。でも、乙御前の母に限って、神社に行くとは思えないので、これは違うと思いました。

では、大聖人がいう「神にも心を尽くし」の神とは、

大聖人は、神々(特に法華経の守護神)を軽視することはなく、むしろ仏教を守護する存在としての役割を認めています。たとえば、法華経』には十羅刹女二十八宿、天帝釈など、仏法を守る神々の記述があります。日蓮は、こうした神々も法華経を信仰する者を守護すると考えており、神々への礼儀や敬意を欠かさないことを重視していました。

なるほど、そっちの神のことかって思いました。

神社で神さん拝んでたら、それは違うよって言われますよね。