御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

筒御器(つつごき)抄 秋元御書  1071頁 59歳御作

秋元太郎兵衛尉が筒御器30、皿60枚をご供養したことに対するお返事。

日蓮大聖人がおられた身延は冬は寒さがことのほか厳しく、衣食も不足がちであった。

「人はなき時は40人、ある時は60人」と言われているように大勢の弟子や訪ねてくる信徒がおり食器は不可欠の日用品であった。この器のたとえで信仰の在り方を教えられている。

「器は我等が身心を表す」と言われ、心も口も耳も器である。

器には4つの失「覆」「漏」「汙」「雑」があると言われ、巧みな例えで信仰の在り方をご教示されている。

1、「覆」とはくつがえる、おおうの意で、正法に対して心を閉じ、受け入れないこと。

2、「漏」もれるの意。穴やひびがあれば水を入れてもいっぱいにならない。つまり中途で退転したり、怠ったりすること。たとえば悪縁にあって動揺する信心、熱しやすいが持続性のない火の如き信心など。

3、「汙」けがれ、よごれるの意。心の汚れ(我見や慢心、エゴ)によって正法を聞いても信仰そのものを、ゆがめ何の益にもならない。自己の醜い名誉欲や権勢欲を満たすために、その手段として信仰を考えている場合も「汙」に相当する。

4、「雑」まじるの意。正法正義に邪義をまじえること。題目を唱えながら、たまに念仏を言ってみるとか。妙法を受持していると言いながら、心は他宗の教義・思想などに堕している場合など。飯に糞を雑え、砂や石を入れたようなものである。

世間の学匠は法華経に余経を雑えても差し支えないと思っているがとんでもないことである。

この四失のないのが「完器」「またき器」であり、「信心の心全ければ平等大慧の智水乾く事なし」と説かれている。

 

以上は講義の1章の内容をもとにまとめました。

全部で12章まであるので、多分全部は書けません。次の2章のところは四箇の格言が出てきます。日本中に念仏・真言・禅・律などの悪法がはびこる中でそれらを全部破折して戦っておられる日蓮大聖人が自分のことを男女に悪(にく)まれたる第一の者であると言われている。

「当世第一の不思議の者たるのみならず、人王九十代・仏法渡りては七百余年なれどもかかる不思議の者なし。日蓮大聖人は文永の大彗星の如し、日本国に昔より無き天変なり、日蓮は正嘉の大地震の如し、秋津洲(あきつしま)に始めての地夭なり」

★第3章

弘法は法華最第三といい、慈覚は法華最大二、智証は慈覚の如し、と。

この3人のせいで日本中に真言宗が広まっていったと言っても過言ではない。

★第4章~第5章~第6章

法華経を習うには3つの義あり、謗人、謗家、謗国。

正法を謗ったならば無間地獄におちる。そういう謗人を師匠としないこと。与同罪で自分も地獄に堕ちる。

24時間生涯法華経を誹謗しなかったとしても、謗家に生まれたならば無間地獄におちる。「謗家の失を脱れんと思わば父母・兄弟等に此の事を語り申せ」と言われているように、謗家に生まれても正法に目覚めたならば家族を折伏していけばこの失を免れることができる。

正法誹謗の者が充満している国土が謗国。その一国が皆無間大城になる。大海に一切の川が集まるように、一切の禍(わざわい)が集中し、「三災月々に重なり七難日々に来る」三災とは飢饉・疫癘・兵革。「飢渇おこればその国餓鬼道と変じ、疫病重なればその国地獄道となる、軍(いくさ)起こればその国修羅道と変ず、父母・兄弟・姉妹をえらばず妻とし、夫とたのめばその国畜生道となる・・・」しかも死してではなく現身にと言われているように現実に三悪道・四悪趣となる。

★第7章

謗法の僧への供養を禁じられている。仏法では不殺生戒を第一としているが、例外として謗法の者を害することは第一の功徳になると説かれている。

不殺生戒:有情の生命を奪うことを禁ずる戒律で、この戒を破って人間として生を受けたときは、短命・多病の二種の悪果を得るとされる。

全宇宙に遍く敷き満たすほどの財宝といえども命と取りかえることはできないという意味で生命のもつ尊厳性・無上の価値を説き明かしている。ゆえにアリを殺しても地獄に行き、魚鳥等を殺しても青草を切ってさえ地獄の業となると・・・

涅槃経梵行品で「殺に三つあり、謂く下・中・上なり、下とは蟻子乃至一切の畜生なり」等と説かれる教旨に基づき、殺したものはその度合いに応じて地獄・餓鬼・畜生の苦を受けると言われる。

法華経の敵になればこれを害する」とあるが、殺すのではなく謗法の心を断つことが元意であろう。

★第10章

登竜門の話。

なかなか仏にはなられへんでということの例えです。

竜門というところにある滝は百丈(約303m)もあって、登った魚は竜になるという。この滝の早いこと矢にも電光にも過ぎ、春の初めには漁師たちが集まって魚を採る網を百千重に懸け、あるいは射て採り、あるいはすくって採る。鷲、くまたか、とび、ふくろう、虎、狼、犬、狐が集まって昼夜に取って食う。そのため10年、20年に1つも竜になる魚はない。たとえば凡下の者が昇殿を望み、下女が后となろうとするようなものである。

法華経を信ずる事、此れにも過ぎて候と思食せ。

 

半分仏になってきたわ、とか80%仏になってるとか、そんなことはあり得ないそうです。100%仏にならないと・・・!

仏になると未来永遠に仏だそうです。あるとき先生がおっしゃいました。

 

★第11章

法華経の敵を見ておきながら責め、罵り、国主にも言わず、人を恐れて黙止するならば必ず無限大城に堕つべし。

日蓮大聖人はこの戒めを恐れるがゆえに国中の謗法を責めたところ一度ならず流罪になり、死罪に及んだのである。今は罪も消え過も脱れたであろうと思って、鎌倉を去ってこの山に入って7年になる。

★第12章

通解を引用します。心にジーンとくるところです。客観的に書かれているのに想像すれば心に響きます。

この山の為体(ていたらく)・・・・・(大聖人がいる場所のロケーションがよくわかるよう詳しく描写されている。ここは省略します。)

この4つ山と4つの河の間に手ほどの広さのところがあり、ここに庵室を造って雨を避け、木の皮をはいで四方の壁とし、自然に死んだ鹿の皮を衣とし、春は蕨(わらび)を折って身を養い、秋は果実を拾って命を支えてきたところが、去年11月から雪が降り積もって年が改まった正月の今に至るまで絶えることがない。庵室の高さは7尺なのに雪は1丈も積り、四方の壁は氷を壁とし、軒のつららは道場を荘厳する瓔珞(ようらく)の玉のようである。室内には雪を米の代わりとして積んである。

もとより人も来ないうえ、雪が深くて道は塞がり、訪問する人もない所なので、現在に八寒地獄の業を身に償っている。生きながら仏には成らずに、むしろ寒苦鳥という鳥に似ている。頭は剃ることがないので鶉(うずら)のようであり、衣は氷に閉ざされて鴛鴦(オシ)の羽を氷が結んだようである。

このような所へは昔から親しかった人も訪れず、弟子等にも見捨てられていたところ、この御器を頂いて雪を盛って飯と思い、水を飲んで重湯と思っている。志のおもむくままに思いを巡らしていただきたい。またまた申し上げよう。恐々謹言。