御書大好き!!

沢山の人が御書に親しめるように、現代語訳や講義、感想など書きます。

窪尼御前御返事→新1980頁 全1476頁→西山殿御返事

御書全集と新版御書では題名が違います。宛先が窪尼御前なので、新版御書ではそのように変わりました。

別名を「金と蓮の事」という御書です。

 

弘安四年 六十歳御作

甘酒一桶、山芋、そして少量のところをお送りくださいました。本当にありがとうございました。
梵網経というお経には、「紙一枚、草一本を仏に捧げることでも尊い行いである」と説かれています。また、大論という論書には、「たとえ土を少し使うだけの供養であっても、それを仏に捧げた者は、この世界の王になる」と記されています。
しかし、あなたのお心遣いは、それらと比べてもはるかに尊いものです。

さらに、それをお送りくださったのが、頼るべき男性もおらず、身寄りもない一人の女性だと聞いております。そのような方が、駿河国の西山という場所から、甲斐国の剥井という山奥にまで贈り物を届けてくださったのです。
人々に見捨てられた聖人が寒さに耐えながら、どれほど辛い思いをしているのかと思われて送ってくださったのですね。父母を亡くして以来、このように親身で丁寧なご厚意をいただいたことはこれまで一度もありません。せめてものご厚意ではないかと思い、涙が止まりません。

私は未熟で至らない人間ではありますが、法華経だけは決して軽んじることはありません。袋が臭くても、中に包まれた金は清らかであり、汚れた池であっても、そこに咲く蓮は清浄です。同じように、私がどれほど愚かであろうとも、法華経はこの上なく尊い教えです。

心ある人なら、金を手に入れるために袋を捨てることもなく、蓮を愛するために池を嫌うこともないでしょう。

たとえ自分が悪い人間であっても、もし仏になることができれば、それは法華経の力が表れた証拠となるでしょう。だから、臨終の際には、法華経の御名をしっかりと唱えようと思います。そうであれば、自分は悪人であっても、それでよいのです、悪人のままでよいのです。恐恐謹言。(敬具)

 月 日 御 返 事

 

〈最後のところの説明〉

「わるくて仏になりたらば、法華経の力あらわるべし。よって臨終わるくば、法華経の名をおりなん。さるにては、日蓮はわるくても、わるかるべし、わるかるべし。」

この文章をもう少しわかりやすく説明します。

 

この文章は、日蓮が自らの未熟さや至らなさを謙虚に認めつつも、法華経の力を深く信じていることを述べています。日蓮は自分を「悪い人間(悪人)」と卑下していますが、それでも仏となる道を目指しており、その成仏は全て法華経の力によるものだと確信しています。

また、「臨終」という表現は、人生の最終段階においても法華経を信じ抜き、その名を唱えることで成仏を果たそうという覚悟を示しています。日蓮は、自分が完璧な存在ではなく「悪人」であることを受け入れつつも、法華経の力を頼みに生きる道を選んでいるのです。

特に「わるかるべし、わるかるべし」と繰り返している部分は、謙遜の念と法華経への信頼が強調されています。この言葉は、自分の弱さを認めつつも、それを包み込む法華経の救済力に対する深い信仰心の表れです。