御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

2024-01-01から1年間の記事一覧

御義口伝 常不軽品 第十六 全767頁 新1068頁

第十六 此(この)品の時の不軽菩薩の体の事 御義口伝に云わく、「不軽菩薩」とは十界の衆生である。三世常住の礼拝の行を立てるのである。吐くところの語言は妙法の音声であり(南無妙法蓮華経を唱えるのである)。 (極端な例が)獄卒が杖を取って罪人を呵…

御義口伝 常不軽品 第十五 全766  新1067頁

第十五 「於如来滅後(如来滅して後において)」等の事 【常不軽品において、仏が得大勢菩薩に向かって「得大勢、当に知るべし、この法華経は大いに諸の菩薩摩訶薩を饒益(にょうやく)して、能く阿耨多羅三藐三菩提に至らしむ。この故に諸の菩薩摩訶薩、如…

御義口伝 常不軽品 第十三~第十四 全766 新1067頁

第十三 「常不値仏、不聞法、不見僧(常に仏に値わず、法を聞かず、僧を見ず)」の事 御義口伝に云わく、この文は、不軽菩薩を軽賤するが故に、三宝を拝見せざること二百億劫、地獄に堕ちて大苦悩を受けたと述べている。 今、末法に入って日蓮等の類い南無妙…

御義口伝 常不軽品 第十一~第十二 全765 新1066頁

第十一 「於四衆中説法、心無所畏(四衆の中において法を説くに、心に畏るるところ無し)」の事 【ここは、常不軽品第二十において、仏が不軽菩薩について「斯の諸仏の法の中において、受持読誦して、諸(もろもろ)の四衆のためにこの経典を説くが故に、こ…

御義口伝 常不軽品 第九~第十 全765 新1066頁

第九 「言、是無智比丘(「この無智の比丘」と言う)」の事 御義口伝に云わく、この文は法華経の明文である。上慢の四衆が、不軽菩薩を「無智比丘」と罵詈している。「凡有所見(およそ見るところ有る)」の菩薩を「無智」ということは、第六天の魔王の所為…

御義口伝 常不軽品 第七~第八 全764 新1065頁

第七 「乃至遠見(乃至遠く見る)」の事 ここは、常不軽品第二十で「凡(およ)そ見る所ある」一切の衆生を礼拝したのみならず「乃至遠く四衆を見ても、亦復(またまた)故(ことさら)に往(ゆ)いて礼拝讃歎」したと述べられている文についての御義口伝で…

御義口伝 常不軽品 第四~第六 全764 新1065頁

第四 「凡有(ぼんぬ)所見(およそ見るところ有る)」の事 御義口伝に云わく、今、日本国の一切衆生を法華経の題目の機なりと知見することである。 (すなわち、全民衆がこの南無妙法蓮華経に帰依すべき機根であると見ていくのである。) 第五 「我深敬汝等…

御義口伝 常不軽品 第三 全764 新1064

第三 「威音王」の事 御義口伝に云わく、「威」とは色法であり、「音」とは心法である。そして「王」とは色心不二を「王」という。 末法に入って南無妙法蓮華経と唱え奉る、これがその「威音王」ということである。 その故は、「音」とは一切権教の題目等で…

御義口伝 常不軽品 第二 全764頁  新1064頁

第二 「得大勢菩薩」の事 御義口伝に云わく、 「得」とは応身なり、(無量の功徳を得た幸福な人生の姿) 「大」とは法身なり、(偉大な生命自体) 「勢」とは報身なり。(生命の威光勢力、生命力であり、智慧) また「得」とは仮諦なり、 「大」とは中道なり…

御義口伝 常不軽品三十箇の大事 第一 全763頁  新1064頁

常不軽品三十箇の大事第一 「常不軽」の事 御義口伝に云わく、「常」の字は、三世の不軽のことである(三世にわたって不軽が存在するということです)。 「不軽」とは、一切衆生の内証に具するところの※三因仏性を指すのである。仏性とは、法性のことである…

御義口伝 法師功徳品 第四 全763 新1063

第四 「是人持此経 安住希有地(この人はこの経を持ち、希有の地に安住す)」の事 御義口伝に云わく、「是人」とは、日本国の一切衆生の中には法華の行者のことである(すなわち日蓮大聖人のことである)。「希有地(けうじ)」とは、寿量品の事・理の顕本を…

御義口伝 法師功徳品 第三 全763頁  新1063頁

第三 「又如浄明鏡(また浄明なる鏡のごとし)」の事 御義口伝に云わく、法華経に鏡の譬えを説くこと、この明文なり。 六根清浄の人は「瑠璃」「明鏡」のごとく三千世界を見るという経文なり(三千世界を明らかに己心に映して見ることが出来るという経文であ…

御義口伝 法師功徳品 第二  全762頁  新1062頁

第二 「六根清浄」の事 御義口伝に云わく、眼の功徳とは、法華不信の者は無間に堕在し、信ずる者は成仏なりと見るをもって眼の功徳とするなり。法華経を持ち奉るところ、眼の八百の功徳を得るなり。眼とは法華経なり。「此大乗経典、諸仏眼目(この大乗経典…

御義口伝 法師功徳品四箇の大事 第一 全762頁 新1062頁

第一 「法師功徳」の事 御義口伝に云わく、「法師」とは、五種法師である。「功徳」とは、「六根清浄」の果報である。所詮、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「六根清浄」となる。 したがって、妙法蓮華経の法師と成って大いなる徳(さいわ…

御義口伝 随喜功徳品  第一 全761頁  新1061頁

随喜品二箇の大事 第一 「妙法蓮華経随喜功徳」の事 随喜功徳品第十八の題号である、随喜功徳についての観心釈である。 御義口伝に云わく、「随」とは、事・理に随順するをことをいう。「喜」とは、自他共に喜ぶことである。 事とは、五百塵点の事顕本に随順…

御義口伝 分別功徳品三箇の大事 第三 全761頁 新1061頁

第三 「仏子住此地 則是仏受用(仏子この地に住せば、則ちこれをば仏は受用したもう)」の事 御義口伝に云わく、この文を自受用の明文というのである。「此地」とは、無作の三身の依る地なり。「仏子」とは、法華の行者なり。仏子は菩薩なり。法華の行者は(…

御義口伝 分別功徳品三箇の大事 第二 全760頁 新1060頁

第二 「是則能信受 如是諸人等 頂受此経典(これは則ち能く信受せん。かくのごとき諸人等は、この経典を頂受す)」の事 ここは、分別功徳品十七で仏が弥勒菩薩に向かって偈を説いて、六度の修行、その功徳、そして不退を讃えて「是即ち能く信受せん、是の如…

御義口伝の序より先生の言葉ほか、今朝思ったこと

私が持ってる御義口伝講義の本は絶版となっているので、二度と同じ本が刊行されることはないです。 池田先生が死ぬ間際まで御義口伝の講義を大白蓮華に掲載してくださったことを思えば、どれほど大事な御書かはわかると思う。御義口伝講義上の序を今日もう一…

御義口伝 分別功徳品三箇の大事 第一 全760頁 新1060頁

寿量品が終わりましたので、これからは初耳が多い経本になりますね。 分別功徳品三箇の大事 第一 「其有衆生、聞仏寿命長遠如是、乃至能生一念信解、所得功徳、無有限量(それ衆生有って、仏の寿命の長遠なることかくのごとくなるを聞き、乃至能く一念の信解…

御義口伝 寿量品 第二十七 全760頁 新1059頁

第二十七 無作の三身の事 種子・尊形・三摩耶 御義口伝に云わく、尊形とは、十界本有の形像なり。三摩耶とは、十界の所持の物なり。種子とは、信の一字なり。いわゆる南無妙法蓮華経改めざるを云うなり。三摩耶とは、合掌なり。秘すべし、秘すべし云々。 今…

御義口伝 寿量品 第二十六 全760頁 新1059頁

第二十六 寿量品の対告衆の事 寿量品が誰のために説かれたのか、すなわち対告衆について、説かれたところです。 御義口伝に云わく、経文は(文上においては)「弥勒菩薩」が対告衆になっている。しかしながら、寿量品は一往は在世の衆生のためである。だが、…

御義口伝 寿量品 第二十四 全759頁 新1058頁

第二十四 この寿量品の所化の国土と修行との事 御義口伝に云わく、当品流布の国土とは、日本国なり。総じては南閻浮提なり。所化とは、日本国の一切衆生なり。 修行とは、「無疑曰信(疑いなきを信と曰う)」の信心のことなり。授与の人とは、本化地涌の菩薩…

御義口伝 寿量品 第二十三 全759頁 新1058頁

第二十三 「久遠」の事 御義口伝に云わく、この品の所詮は「久遠実成」なり。「久遠」とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままという義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、これ働かさざるなり。三十二相八十種好を具足せず、これ繕わざるなり。本有常…

永遠なれ3.16 広宣流布記念の日

3.16の思い出と、決意を書いておきます。 昭和52年3月16日、御本尊を下付していただき、お寺の向かいにあったお仏壇屋さんで、5万円のお仏壇を買いました。当時大学の卒業前でしたが、3月1日から出勤していて、それで、貯金していた2万5千円だけ支払って…

御義口伝 寿量品 第二十二 全759頁 新1058頁

第二十二 自我偈始終の事 御義口伝に云わく、「自」とは、始めなり。「速成就仏身(速やかに仏身を成就す)」の「身」とは、終わりなり。始終、自身なり。中の文字は受用(=活動)なり。よって、自我偈は自受用身(日蓮大聖人のこと)である。法界を自身と…

御義口伝 寿量品 第二十~第二十一 全759頁 新1057頁

第二十 「得入無上道(無上道に入ることを得)」等の事 御義口伝に云わく、「無上道」とは、寿量品の無作の三身なり。この外に「成就仏身(仏身を成就す)」これ無し。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「成就仏身」疑いなきなり云々。(成…

御義口伝 寿量品 第十九 全758頁  新1057頁

第十九 「毎自作是念(つねに自らこの念を作す)」の事 御義口伝に云わく、「毎」とは、常の意で三世(常住)をあらわす。 「自」とは、別しては釈尊(仏界)をあらわし、総じては十界(各々の生命)をあらわす。「是念」とは、無作本有の南無妙法蓮華経の一…

御義口伝 寿量品 第十七 全758頁  新1056頁

第十七 「放逸著五欲 堕於悪道中(放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕つ)」の事 勤行でよく読んでるから、ここへ来たら思い出してくださいね~ 「ほういつ=謗法の人は五欲に執着して、悪道に堕ちていくんやなって」 御義口伝に云わく、「放逸」とは、謗法…

御義口伝 寿量品 第十六 全757頁 新1056頁

第十六 「我亦為世父(我もまたこれ世の父なり)」の事 御義口伝に云わく、「我」とは釈尊、一切衆生の父なり。主・師・親において、仏に約し、経に約す。仏に約すとは、迹門の仏の三徳は、(譬喩品第三にある)「今此三界(今この三界)」の文これなり。本…

御義口伝 寿量品 第十五 全757頁 新1055頁

第十五 「衆生見劫尽○而衆見焼尽(衆生は劫尽くと見る○しかも衆は焼け尽くと見る)」の事 御義口伝に云わく、本門寿量の一念三千を頌(じゅ)する(ほめたたえる)文なり。「大火所焼時(大火に焼かるる時)」とは、実義には煩悩の大火なり。「我此土安穏(我…